メキシコ便り 特別編

メキシコ在住 K

1.豚インフルエンザ (2009.5.2)

2.新型インフルエンザ、その後 (2009.6.1)

3.フチタン (2009.7.5)

4.エルタヒン遺跡と土のピラミッド (2009.8.21)

5.オアハカのゲラゲッツァ (2009.8.28) 

6.グアテマラ、ホンジュラス (2009.9.28) 

7.ベリーズ、エルサルバドル(2009.10.4) 

8.ベネズエラ、ギアナ高地(2009.10.29) 

9.コロンビア(2009.11.2)

10.エクアドル(2009.11.7)

11.チリ(2009.12.13)

12.ボリビア(2009.12.18)

13.ブラジル(2009.12.27)

14.最後のメキシコ便り(2010.1.17)NEW


最後のメキシコ便り

(2010.1.17)

 長い間みなさんに読んでいただきましたメキシコ便りもこれが最後、私は今帰国の途につきアトランタでの16時間の待ち時間に最後のメキシコ便りを書いています。
 
メキシコに来た時には全くいなかった友人も今ではたくさんでき、一人ひとりとの別れの挨拶はとてもつらいものでした。いつも大学のキャンパスで会話の練習にと時間をとっておしゃべりをしてくれた、インディヘナ・アートのクラスの友人アドリアーナ、トイレでさいふを拾ったことから友だちになり家族ぐるみのつきあいをしたバネッサ、「今度はいつくるの」といつも聞いてくれ、メキシコ料理の作り方を教えてくれたデルフィーナ、「メキシコの歴史と政治」のクラスで知り合ったラウラはメキシコの現状や問題点について、常にわかりやすく説明してくれました。また私のクラスに教育実習に来て親しくなったタニアは毎回進級のためのオーラルテスト(みんなの前で5分間話すもの)の下書きを添削してくれました。全過程を無事に終了できたのも彼女のお陰だと思っています。また、日本語とスペイン語をお互いに教えあい両国の文化について語り合ったエマ。サルサ教室で知り合いよく一緒にディスコに行ったロサルバとアロンドラ姉妹。私のアパートでトラブルが起こった時、助けてくれた、となりのマリオ。そして若いミゲルは私にメキシコの負の部分も知って欲しいと貧しい人々が住む地域に彼のお母さんとともに案内してくれました。彼のお母さんは通りで物売りをする母親のために寄付を募り、保育所を建設し運営しています。ミゲルは保育所で子供を預からないと子供が通りに放り出され、いつしかドラッグに手を染めてしまうといいます。彼はその保育所でギターを教えたり、そこで開かれるさまざまな勉強会に積極的に参加したりしながら、保育所運動の必要性をいつも熱っぽく語りました。若い彼が一生懸命に少しでも社会をよくするためにと活動している姿は、とてもすがすがしく頼もしいものでした。

 そんなミゲルがある日、メキシコ・シティー近郊のトルーカにあるプレイスパニコ(スペイン人がメキシコにやってくる前の時代)から続いているテマスカルと呼ばれるサウナ風呂につれていってくれました。大きなセメントで作られた直系5メートル位の円形のサウナで、中央で炭が燃やされます。約50人位の人が中に入り壁に沿って座ります。家族連れもいて7ヶ月位の赤ん坊もいます。そしてなにやら巫女のような人のお祈りのあと中は真っ暗になり、笛や太鼓の激しい音が鳴り出しました。すると赤ん坊が激しく泣き出しました。それは当然です。真っ暗な上に赤ん坊にとっては恐ろしげな音楽なのですから。そして20分たつと明るくなり、音楽も止み、赤ん坊も泣き止みました。他の人たちは汗だくになり外で水をかぶったりしています。
 
20分サウナ、10分休憩を4回繰り返すのだそうです。私は赤ん坊のお母さんは外に出てきっとそのまま帰ってこないだろうと思っていましたが、彼女はまた赤ん坊を連れて中に入ってきました。そして再び真っ暗と激しい音楽、赤ん坊の泣き叫ぶ声、私はリラックスするどころか、たまらなくなって耳をふさぎました。
 
20分が過ぎ私はミゲルに「なぜあのお母さんは子どもがあそこまで泣き叫んでいるのに平気なの?そして他の人たちはなぜ誰も注意しないの?」と聞きました。するとミゲルは「あの家族はこの辺りに住むインディヘナだけど、彼らとは文化が違うのだよ」といって、自分は熱すぎて4回も入れないからと出て行ってしまいました。私はその答えに納得できないままサウナに残りましたが、またもや始まる激しい泣き声。思い余って次の休みに赤ん坊の母親に「あなたの赤ちゃんはこんなに怖がっているのに、どうして泣かせたまま放っておくの」と聞きました。すると彼女は「ずっと抱いているけど泣き止まないのよ。子どもは泣くものだから」と平然というのです。私はその答えにびっくりしてミゲルにいうと彼は「さっきも言ったように彼女たちはずっとそう考えて生きてきているんだし、イスラムの人たちが豚肉を食べないのと同じで文化が違うのだから」といいます。
 
しかし、私はこれは文化の違いの問題ではないと思うのです。それは彼女に子供の気持ちを考えるという思考方法がないからで、これは教育の問題だと思うのです。確かにそれぞれのインディヘナたちの持つ文化、習慣を重んじるというのは大切なことですし、文明の名のもとに進める近代化がすべて良いとも思いません。しかし、こればかりは違うと思います。子どもにとって幼いころの恐怖体験は、きっと心に傷を残すし、そんな子どもの心理を学ぶという教育が彼女たちには必要だと思うのです。

 このできごとにも見られるように、メキシコには教育の欠如、不備による多くの問題があります。平気でゴミを道端に捨てる人、最後まで責任を持って仕事をしない人、駐車場と化している道路でこずかい稼ぎをする警官、いつまでたってもなくならない政治家の腐敗、保身と蓄財しか考えていない労働組合の幹部などなど、いいだしたらきりがありません。
 
親が子にしっかりと人間としてのエチケットやマナー、責任感について教えられない家庭教育。また、学校の施設が足りないため午前と午後の2交代制で十分な勉学の時間がとれない学校教育。こんな中では人間としての豊かな感性を磨き、人としてどう生きるべきかを学ぶための時間などは当然削られてしまいます。そして、ただ同然の国立大学(ちなみに私の通っていた大学はメキシコ人なら年2ペソ、約16円です)は、あまりにも狭き門で、私立は高すぎるという大学教育の現状、メキシコではわずかの秀才かお金もちでない限り大学まではなかなか進学できません。
 
これらのことをみるにつけ、トータルな人間教育がここでは十分できていないのだという気がしてくるのです。国の根幹をつくるのは教育だといわれますが、そういう意味ではメキシコはかなりお粗末な状況にあると思います。

 この話を友人のラウラにすると、彼女は「メキシコは生まれて200年の若い国なので、まだまだ発展途上にあり国としての成熟が遅れているのよ」といいます。「え?200年?メキシコには紀元前からの歴史や文化があるじゃない」というと、彼女は「それらは文化遺産としては残っているけれど、スペイン人がメキシコを征服した時、私たちの歴史を証明するものはすべて焼き尽くされ、我々の歴史としてはスペインから独立した後の200年しかないのよ」というのです。うーん、なるほどそういう見方もあるのかと妙に納得させられてしまいましたが、そういえばミゲルも「この国が変わるにはあと3世代100年はかかる。スペインに征服されていた期間と同じ300年はかかる」といっていましたが、私は彼に「メキシコ人はなにごとにもゆっくりだからあと100年じゃ無理よ」なんて茶化したりしましたが、それにつけても300年に及んだスペインの征服。この征服がメキシコに及ぼした大きすぎる影響について別の友人のエマとこんな話になりました。
 
ある日、私が常日頃感じていたメキシコ人についての疑問をエマにぶつけた時のことです。その疑問というのはメキシコ人はとても我慢強いというか、なかなかお上に対して抗議行動をおこさないのです。いつまでも放って置かれている道路の大きな穴や、出っぱった杭、これらをを直すように役所に文句をいう人はいません。4日も5日も断水が続いても、水が出るまでだまって黙々と水運びをします。けた外れに荒っぽい地下鉄やバスの運転にも何も言わず耐えています。のろのろした役所の仕事ぶりにも長い列をつくってひたすら待ちつづけます。
 
私はエマに「いったいどうしてメキシコ人は我慢するの?なぜ抗議しないの?」と聞きました。するとエマは「抗議をしても無駄、何も変わらないとあきらめているのと、それにも増して権力にたてつくのが怖いという気持ちがあるのよ。そしてこの恐怖心は300年に及んだスペイン征服時にメキシコ人にすりこまれたものなのよ」というのです。そして「あまりに長い期間だったのでいまでもお上は恐ろしいという気持ちがなかなか消えないのよね」と続けました。
 
うーん、そういえばメキシコ人はよく思い通りにならない時に、ニモド(仕方ないね)といいます。いつもこの言葉を使ってあきらめてしまい、あまりものごとを深く追究しようとはしません。そしてフィエスタで飲んで、しゃべって、踊って忘れてしまいます。

 しかし、私は今はもうスペインの征服者は居ないし、おまけに現代に生きる人たちが、まだその恐怖を覚えているというのはどうにも納得できません。彼らがあまり抗議行動をしないのは恐怖心の記憶というより、私には別の理由があるような気がするのです。
 
それはメキシコは1810年にスペインから独立しましたが、依然として、うっとおしい他国による征服状況は続いているのではないかと思うのです。
 
というのはスペインは去ったけれど、代わりに米国が今、メキシコ経済を牛耳るという形で領主国のようになっているような気がするのです。大きなスーパーマーケットやホテル、レストランチェーンをはじめとしてたくさんの米国資本がメキシコに入り、利潤は米国に持っていかれます。そしてまた、危険を覚悟の上で多くの人が国境を越え、米国に出稼ぎしています。家政婦をしたり、工事現場で働いたりする彼らがメキシコに送金してくるドルはいまやメキシコ経済の大きな支えになっているのです。米国がくしゃみをするとメキシコは風邪をひく、といわれるほどメキシコの経済は米国によりかかっているのが現状です。スペイン人による破壊、略奪、暴力という征服のやり方とは変わりましたが、経済生活における相変わらずの他国による圧迫感と閉塞感があきらめの感情を呼び起こし、それがなかなかプロテストできない原因のひとつになっているのではないかと思うのです。
 しかし、このラテンアメリカに共通する図式は今ブラジル、チリ、アルゼンチン、ベネズエラ、ボリビアなどの動きとあいまって、少しずつ変化が現れてきています。困難さはともなうでしょうが、いつの日かメキシコがスペイン300年の呪縛と米国のくびきから解き放たれ、名実ともに明るい「太陽の国」になって欲しいと切に願います。

 思えば2年5ヶ月前、メキシコに着いた時、言葉のできない異国で一人でやっていけるのだろうかという不安感と、しかし、来てしまったのだという開き直りが交錯する中での武者ぶるいにも似た感覚ではじまったメキシコ生活でした。
 
右も左もわからないまま行った大学はあまりに広すぎて入り口を探すだけで何時間もかかったり、構内バスに乗ったはいいけれど同じところを何度も巡回して地下鉄の駅にたどり着けなかったりと、散々な目にあいながらも私の学生生活は始まりました。先生のいうことはさっぱりわからず、回りは欧米から来た若者ばかり。みんなよくしゃべり、理解できているように見えて、何度も落ち込みました。彼らの何倍もやらなくてはついていけないと悲壮な気持ちになりましたが、逆にいうと何倍かやればついていけるのだと思い直し、必死で勉強しました。毎日12時間はやったでしょうか。私は今60歳、世に言う還暦です。友人たちは記憶力がなくなってきた。集中力が落ちてきたと嘆いていますが、私は自分でもびっくりするほど記憶力が増し、若いころより数倍も集中して勉強できるようになりました。メキシコに来るまでは能力低下を年のせいにする傾向がありましたが、今では若いころに流行した根性論ではなく本当に「やればできる」と思えるようになりました。やりたいことに対する深い思いとそれをやれる環境をどうつくれるかで、いくら年をとっていても「やればできる」のだと思えるようになりました。もちろん強靭な身体に産んでくれた両親に感謝しつつ、この自信でこれからはあまりいいわけをしない人生を歩んでいきたいと思っています。
 
時にはメキシコ大好き、時にはメキシコ大嫌いとさまざまな思いが交錯したメキシコ生活でしたが、メキシコは私に学ぶことの喜びと大きな自信、そしてすばらしい友人たちを与えてくれました。私にとっては人生の中でもっとも充実した2年5ヶ月だったと思います。めまぐるしくいろいろなことがありましたが、今ではメキシコだーーーーーーい好きです。


ブラジル

(2009.12.27) 

 いよいよ私の中南米ひとり旅も今回のブラジルで最後になりました。日本からは地球の真裏にあたり、最も遠い国ブラジル。2014年のサッカーワールドカップや2016年のオリンピックの開催が決まり、経済発展も著しいといわれているブラジルですが、実際はどうなのか、興味津々でかけることにしました。
 ブラジルまでは日本からだと24時間から30時間くらいはかかりますが、メキシコからだと9時間ほどです。夜遅い飛行機に乗り、サンパウロに着いたのは昼の1時半。友人の山下さんが迎えに来てくれ、ここでは彼の家に泊めてもらいます。

 ブラジルには1908年、笠戸丸で791人が初めて移民したのを皮切りに、25万人の日本人がブラジルに渡りました。特にサンパウロのリベルダージには大きな日本人街があり、コミュニティーを形成しています。そこでリベルダージにある移民博物館に行ってみました。ここで三重県の教育委員会の人を案内している男性がいたので一緒に話しを聞かせてもらいました。
 
彼は10歳のときに両親に連れられブラジルに来たそうで、その経験談はとてもショッキングなものでした。ジャングルを切りひらき畑を作ったそうですが、とにかく食べ物がなく、なんでも食べられるものはすべて食べたそうで、スズヘビという毒蛇をたくさん捕まえてそれを干してだしをとったという話、豚のラードの塊の中に肉をいれ冷蔵庫がわりにして保存したという話、食料にする魚を川で取り干していると、そこにハエが卵を産みつけそれがかえり、そのさなぎを湯で洗ったという話、シュッパンサという虫が家の柱に卵を産みつけ、大量発生したシュッパンサにかまれ、シャーカ病という心臓が肥大する病気にかかり死んだ人の話、密林に住むアナコンダに子供がのみ込まれた話など、あまりに具体的で壮絶な話の数々は想像を絶するものばかりで、その苦労は私などにはかり知ることはできませんでした。
 
また、密林を切りひらくのではなく、大きなコーヒー農園で労働者として働いた人は、当初は5年契約でしたが、生活物資はみんなコーヒー農園の売店で買わなければならず、これがまた高く、貯蓄するどころか借金の方が増え、5年が6年、7年と伸び逃げ出した人も多くいたそうです。
 
このように苦労に苦労を重ねながらがんばってきた日系人は、いまではブラジル全土に150万人となり中産階級を形成しています。
 その日は日曜だったのでとなりのホールでは太鼓フェスティバルが開かれていました。ブラジル人の若者と日系人の若者が一緒に笛や太鼓でソーラン節を演奏する姿は100年以上かけて日系人がブラジルでふんばり続け、今ではすっかりブラジル社会に溶け込んでいるという証しなのでしょうね。しかし、今や3世、4世の時代になり、日本人の顔をしていても日本語がほとんど話せない人たちも増えてきています。日本の伝統文化をしっかり守りながらも日本が少しづつ遠くなってきているという現実もあるようです。

 次の日はサンパウロから飛行機で1時間半のカンポ・グランジに行き、ここからバスで5時間のボニートに行きました。ここには透明度の高い川があり、シュノーケリングをしながら魚と一緒に川を流れていくことができます。その中のリオ・デ・プラタ(プラタ川)に行きました。聞いていたとおり本当にきれいな川で、水面の上からでも魚がはっきり見えます。この川だけに生息するというピラパタンガや、金色で尾に黒いラインのあるドラードなど、たくさんの魚が悠々と泳いでいます。水深1メートルの浅いところもありますが、決して立ったり歩いたりしてはいけません。ひたすら手だけを使いゆっくり浮きながら泳ぐのです。こんな風に泳いでいると、まるで私も魚になったような気がします。約3時間でしたが初の魚体験、おもしろかったです。
 
ここではこのほか「青の洞窟」と呼ばれる真っ青な水をたたえた地底湖のある洞窟に行ったり、ミモーゾ川ぞいにある滝公園の6つの滝つぼで泳いだり、魚がいっぱいの川がそのままプールになっている公園でのんびりしたりと、ゆっくりとボニートを満喫しました。

 そしてまたサンパウロにもどり、今度はバスで6時間のリオ・デ・ジャネイロに行きました。ここは1960年にブラジリアに首都が遷都されるまで約200年にわたり首都だったところです。コパカバーナやイパネマ海岸をはじめとして長い海岸線を持ち豊かな土地から産出される農作物や金、ダイヤモンドなどの積み出し港として栄えました。
 
ミーハー観光客としてはここにくればまずはコルコバードの丘に登り、大きなキリスト像を見なければなりません。朝一番の登山電車に乗り行きましたが、深い霧で何も見えません。うーん残念。でもここが一人旅のいいところ、誰も先をせかす人はいません。霧が晴れるまで待つことにしました。何にも見えない丘の上でうろうろしていると1時間もすると霧が晴れてきました。すると見えてきました、リオのシンボルとなっている高さ30メートル、幅28メートルのキリスト像が。今までは空撮している写真しか見ていなかったのですが、そばで見るとやはり大きい。見られればオーケー、これで満足して丘を降りました。
 
そしてそのあとバスと地下鉄を乗り継いで、世界最大といわれているマラカナンスタジアムに行きました。11万5000人収容できるというその大きさにはびっくり。通路には壁一面にロナウジーニョやロナウド、カカら人気者たちの大きな写真がいっぱいです。またスタジアムだけではなくロッカールーム、トレーニング室、ジャグジールームなども見学できました。しかしその設備は案外簡素なのでちょっと拍子抜けしました。それにしてもこのスタジアムで満員のお客が入った試合の様子を想像するだけで、なんだかわくわくしてくるようなきれいで立派なスタジアムでした。
 そして、ここからの帰り道、またもやひったくりに遭遇してしまったのです。地下鉄に続く大きな陸橋を歩いていました。そばには掃除のおじさん、前には女性と黒人の男性が2人歩いていました。するとその黒人の一人が急に振り向き、私に近寄りかばんをひったくろうとしたのです。中にはパスポートをはじめ大事なものがすべて入っています。ぜったいに盗られては困ります。私は「だめー、ぎゃあぁぁぁーー」と大声で叫びました。するとその男はなにも盗らずに私から離れていきました。助かったー。ブラジルは危ないと聞いていましたが本当に危ないです。日中の人がいるところでも襲ってくるのですから。きっと私の「気ぃつけてるでオーラ」が弱くなっていたのだと大いに反省した次第です。

 次の日はカーニバルが開かれるというメイン会場に行ってみました。毎年2月に開催されるリオのカーニバルですが、もう会場づくりが始まり、そばの小さなみやげ物を売っているスペースでは衣装が展示してありました。これ以上派手にはできないというほど超ド派手な衣装で、1年のかせぎをこれにつぎ込むというのですから、相当高いのでしょうね。
 
このあと近代美術館に行きカルロス・ベルガラの作品展を見ました。カーニバルがスコールで中断し、道には大きな水溜りができ、その水溜りに写ったなんともいえない表情の踊り手を写した写真がとても面白かったです。
 
そのあとはコパカバーナで泳ごうと、往復の地下鉄代だけ持ってでかけました。ここは世界有数の大リゾート地です。大きなホテルが林立し、たくさんの人が海岸にいましたが、残念ながら波が高すぎて遊泳禁止です。せめて足だけでもつけようと海岸を歩いていると大きな波がきてすっかり濡れてしまいました。トホホー、なんとも中途半端な感じで引き上げなければなりませんでした。

 次の日早くサルバドールに飛行機で移動しました。サルバドールは1763年リオ・デ・ジャネイロに首都が遷都されるまで、約200年あまりブラジルの首都だったところで、人口300万人の80パーセントを黒人が占めます。そのため独自のアフロ・ブラジリアン文化が花開きました。
 
ダンスと格闘技をミックスしたようなカポエイラはもともと武器を持たない奴隷が素手による攻撃、自己防衛として発達したもので、ビリンバウという弓のような楽器に合わせて太極拳のようなスローな動きで踊ります。道を歩いているとこのカポエイラを広場でやっていました。踊りとビリンバウをじっと熱心に見ていると、そこでビリンバウを弾いていた男性が近寄ってきて弾き方を教えてくれました。
 
大きな椰子の実のからを共鳴箱に1弦だけを弓のように張ってあります。竹の弓と弦の間に左手をいれ、そこにこぶし大の石を持ち、弦につけたり離したりしながら音程をつけるのです。彼が弾くといい音がしますが、私がやると簡単な楽器なのに、難しくてうまくいきませんでした。
 
彼にお礼を言って通りを歩いていると、今度は小さなみやげ物屋からギターの音が聞こえてきました。その音にひかれて中に入るといろいろな楽器を売っていました。ガンサという20センチくらいの木筒の中に豆が入った楽器は前後にシャカタカ、シャカタカと振り、マピートという笛はピッピポッポ、ピーピポと吹くと教えてくれます。私は面白くてやってみました。それぞれで鳴らすとうまくリズムを刻めるのですが、一緒にやれといわれると、とたんにガタガタになってしまいました。おじさんは「練習、練習、日本に帰ってからがんばれ」と言いました。
 それにしてもここの人たちは音楽が好きなのでしょうね。通りでサンバのリズムでタンバリンを叩いて踊っている人がいますし、夜になると大音量の音楽をかけ、テーブルを道に出しみんなで体を揺らしながらビールを飲んでいます。なんだかとても楽しそうです。本当はもっとここでゆっくりしたかったのですが、先を急がなくてはならず、次のマナウスに行きました。

 マナウスは世界一の流域面積を持つアマゾン河が流れるジャングルの真ん中にある大都市です。飛行機が1時間遅れ、おまけに荷物が30分かかってもでてこず、予定から1時間半以上遅れて出口に出ました。すると迎えにきているはずの旅行社の人がいません。彼女の携帯に何度も電話してもつながりません。ジャングルツアーや今夜のホテルの手配も頼んでいたので困り果てました。でもどうしようもないので、自分で適当に手配しようかと思いながら再度電話すると今度はつながりました。
 
なんと空港には彼女の夫が迎えに来ていましたが、2時間待っても私が出てこないので帰ったというのです。えー考えられない。飛行機が到着する予定の時間より40分も早く来て2時間も待ったとはなんという言い草。普通は飛行機の到着の遅れなどを調べるでしょうと、その責任感のなさにびっくりしてしまいました。それでも20分後には彼が空港に着くというので仕方なく待ちホテルまで行きましたが、どっと疲れました。

 その日は19世紀後半、アマゾンがゴム景気に沸き、ありあまる財を手にしたヨーロッパからの移住者が建てたというイタリア・ルネッサンス様式のオペラハウス、アマゾナス劇場に行きました。見学料金は10レアル(日本円で約550円)です。何人か集まってガイドについてでないと入れません。でもそのガイドはポルトガル語か英語だというのです。
 
スペイン語はないかと聞くとないといわれ、私はどちらで聞いてもわからないと入るのを躊躇していると、入り口にいた女性が「今夜8時からここで無料のコンサートがあるので、それにきたらタダで見られるよ」とそっと教えてくれました。ラッキー、コンサートの内容まではわかりませんでしたが、そんなことはかまいません。とにかく8時に来ることにし、そのまま帰りました。
 
8時少し前に劇場に行き中に入りました。劇場内は2階から5階までバルコニー席になり、大理石の階段、屋根いっぱいに描かれた芸術をテーマにした絵などとてもきれいで、豪華な調度品が置かれ、まさにヨーロッパそのものの雰囲気でした。
 
オーケストラピットにはアマゾナスフィルハーモニーが入り、その日の演目はブラジルの作曲家、ビラ・ロボスの曲で踊るコンテンポラリーダンスでした。舞台中央に長方形の額縁のある舞台をもうひとつ作り、ここでは影絵のような動き、手前の舞台では踊り手がその影絵に呼応しながら体を動かすという、とてもおもしろいダンスでした。
 
ここではこのような無料コンサートがしょっちゅうあるそうで、うらやましい限りです。タダで劇場とダンスを見られて倍、幸せな気分になり劇場のすぐそばにあるホテルに帰りました。

 次の日、ジャングルロッジから迎えがきて、車と船と徒歩で移動しました。ロッジはバンガローになっていて、クーラーがあり、熱いシャワーがいつでも出ます。虫が部屋に入ってこないように、窓は網戸になっています。あまりの快適さにまるでリゾートホテルに滞在しているようで、ジャングルにいるのだという実感が全くなくこれでいいのかな、とちょっと疑問を感じましたが、やはり私が疑問を感じたことは正しかったのです。これではよくなかったのです。というのは次の日の朝、こんなことがありました。
 
ガイドに連れられジャングルトレッキングをしていたとき、道で小さな蛇がとぐろを巻いてたのでひょいとまたいだのです。同じツアーの米国人のおじさんはその蛇の写真を撮っていました。先を歩いていたガイドに蛇の話しをすると、彼はびっくりして引き返しその蛇を捕まえました。なんとそれは猛毒をもったコブラだったのです。首をガイドにつかまれたコブラは鋭い牙を見せて私を見ているようでした。もし私がまたいだ時かまれていたら、死んでいたかもしれません。ジャングルに対する無知とノーテンキさが、あんな軽率な行動をとらせたのです。快適なロッジに泊まり、用意万端整えられたコースに乗って動いていると、警戒心がマヒし、ジャングルを知らず知らずのうちに甘くみていたのだと思います。やはり「ジャングルはなめたらあかん」のです。

 午後からは別のガイドのアルテミオに連れられ、ピラニア釣りにでかけました。その途中一匹の蜂にさされてしまいました。ヒリヒリと痛くて腫れ上がってきます。するとアルテミオが「近くの木の幹を2種類切り取り傷口にあてろ」といいました。それをあてていると、不思議なことに痛みも腫れもすっかり消えてしまいました。すごい知識です。
 
ジャングルは猛毒を持った動物や虫などが多く生息していますが、一方で薬の宝庫でもあるのです。彼はアマゾンの民、コカマ族の出身でここから船で6日かかるペルーとの国境近くのタバチンバで生まれたということですが、「ジャングルはあなたたちにとって何?」と聞くと「神様たちの母」だと答えました。
 
彼らにとってジャングルはかけがえのない大切なものなのです。そんなジャングルに何の畏怖の念もなく物見遊山でやってきたことを、ちょっと反省しました。
 
彼につれられて行ったピラニアの釣り場では牛肉をえさに釣ってみましたが、難しくてなかなかひっかかりません。アルテミオや釣り場の若者は次々釣り上げますが、私はえさをとられてばかりです。でもどうしてもピラニアを食べてみたかったので一生懸命です。2時間ばかりがんばりましたがどうしても釣れず、釣り場の若者が釣り上げた大きなピラニアを持たせてもらい、いかにも私が釣り上げたような笑顔をして写真だけ撮らせてもらいました。そしてそれをロッジでスープにしてもらい食べました。淡白な白身魚でなかなかおいしかったです。

 次の日は船でマナウスから下流に10キロの2河川合流点に行きました。ここはネグロ川とソリモインス川が合流してアマゾン河となり大西洋に流れ込むのですが、2つの川の水が混ざらずに境界線をもって乾季で17キロ、雨季で70キロにわたり流れているのです。その原因は両者の比重と流速が異なるためですが、ネグロ川は黒く、ソリモインス川は茶色をしています。
 
この場所では決して混ざりあうことはないけれど、いつか混ざりひとつのアマゾンという大河となるこの2つの川を見ながら、世界各地で絶えない紛争を思い、人間たちもこうなればいいのになあ、などとぼんやり考えてしまいました。

 このあとマナウスに戻り記念にピラニアの剥製の置き物とキーホルダーを買って最後の訪問地ブラジリアに向かいました。しかし、タム航空がまたまた1時間半遅れて、着いたのは夜の8時20分、到着が遅くなるためサルバドールから予約を入れておいたホテルに9時に行きましたが部屋がありません。きっと着くのが遅かったので、先に来た客を泊めてしまったのでしょう。よくあることです。空き部屋を探し、2軒は満室でしたが3軒目には泊まれました。やれやれです。
 
ブラジリアは1955年、当時のクビチェック大統領がブラジル中央高原の荒野に新首都を建設すると宣言、区画整理された機能的な都市づくりをやり、1960年にリオ・デ・ジャネイロから遷都されました。そんな興味深い街を歩きました。道路は広く立体交差やロータリーが多く、また信号も少ないので車はスムーズに流れています。美術館や図書館の建物も非常にシンプルで、かつひとつひとつが現代アートのモニュメントのようです。各省庁のビルは緑で統一され、窓のブラインドが少しづつグラデーションになっています。そして窓を開けた部屋と閉めた部屋ではモザイク模様になり、とてもきれいです。国会議事堂も斬新なデザインで、すくっと立った28階建ての細い2つのビルと、白いお椀をふせた形の屋根の上院と、受け皿のような屋根の下院とがあります。その姿は青い空にくっきりと映えとても美しかったです。
 
ここはいつでも見学できるというので入ってみました。すると実際に国会が開かれ、質疑応答をしていました。緑と黄色のブラジルカラーのアクセントのある木の壁、さざなみのようなやわらかい光を放つようデザインされた天井、議場の周りにはスタジアムのように傾斜して椅子がとりつけられ、いつでも、だれでも会議の様子を見ることができるようになっています。中央の議場は明るく周りの観客席は薄暗くしてあり、まるで劇場で芝居をみているような、ちょっとわくわくする空間でした。

 ここでひとりのブラジル人の女性と友達になりました。彼女の名前はイベッチ、家具のデザイナーをしているそうで、スペイン語が少しわかる彼女とポルトガル語を少し話す私とで、何とか会話が成立しました。
 
ブラジリアはホテルはホテルゾーン、銀行は銀行ゾーン、官公庁は官公庁ゾーン、住宅は住宅ゾーンと機能第一に考えられているため、ホテルゾーンにはスーパーマーケットが一軒もありません。いつもスーパーで野菜や果物を買い、食事代を安くあげている私にとってはとても不便です。おみやげにブラジルコーヒーを買いたいのですが、どこにいけばいいのか全くわからなかった私を、彼女は自分の住宅ゾーンにあるスーパーに連れて行ってくれました。
 
ブラジルは今すごい勢いでレアルが上がり、ドルが下降しています。対日本円でも1レアル55円と上昇しているので、物価が高く日々泣いていたのですが、ここはとても安くてびっくりです。彼女に教えてもらったおいしいコーヒーは250グラムで2.65レアル、150円ほどです。ここで安いパンや果物も買うことができました。この住宅ゾーンの物価は特に安く押さえてあるのではないか、という気がするほど他の都市より安かったです。
 
ブラジリアの都市づくりは確かに機能的で合理的でかつ美しいと思います。道路も広く信号が少ないので車はスムーズに流れます。しかし逆にいうと通行人にとって信号の少ないのは不便です。
 
またホテルゾーンや官公庁ゾーンにはレストランはありますが、スーパーはありません。ここで働く人たちの昼ごはんはどうするのだろうと思っていたら、やはりありました。官公庁の近くの公園のまわりにはたくさんの食べ物を売る露天が。そしてバスターミナルのまわりには小さなファストフードの店やジューススタンドが。最初はずいぶん整然とした芸術的で上品な町だと思っていましたが、やはりここも多くの庶民が生活している場所でした。

 多種多様な民族が生活する商業都市サンパウロ、200年間ブラジルの首都として繁栄し、今なお国際観光都市としても賑わいを見せるリオ・デ・ジャネイロ、音楽好きの人々が暮らすサルバドール、広大なジャングルが残るアマゾンにあるマナウス、そして機能的な近代都市ブラジリアと5つの特徴ある都市を見て歩きました。それぞれの都市は違う国だといってもいいほどの全く異なる顔を持っていました。
 
しかし、その中で共通しているのは、人々は明るくとても親切だったことです。言葉のわからない私にも一生懸命いろいろ説明してくれますし、男性は必ず重い荷物を持ってくれます。地下鉄やバスでは席を譲ってくれます。それでいて興味半分で声をかけてくることはありません。ひったくりにあったりして怖い目にもあいましたが、ブラジルで暮らすのもいいかなーなんて思わせるほど私にとっては波長のあう国でした。
 
しかし、その一方で、この国の問題点も少しかいま見えました。実際はどうかわかりませんが、ブラジルは今すごい勢いで経済発展しているといわれていますが、その原動力になっている国民の購買力が盛んな原因は、健全な経済状態にあるのではなく、どのような品物でも月賦払いができるため、借金が増えているのだという意識がなくものを買いまくっているためだという指摘もあるのです。
 
そしてブラジル人の労働意欲の低さです。ここブラジルはいつも手の届くところに果物がたわわに実るような豊かな大地があり、川や海に行けば魚が取れます。たいした衣服もいらない熱帯気候、もしくは温暖な気候です。そのためブラジル人はそうあくせく働かなくてもいいんじゃないのと思っています。できればなるべく働きたくないと思っています。そして大のお祭り好き。祭りのためならどんな犠牲もいとわず一生懸命ですが、労働意欲という点では日本人とは比べ物にならないくらい低いと思います。
 
ブラジルには広大な国土があり、土地は豊かな農作物を生み出し、石油も出る。鉱物資源も豊富、川や海にはおいしい魚が住み、観光資源もいっぱいと、発展していける要素は十分です。ブラジル人がほんのちょっとだけやる気を出せば、ブラジルは底知れない可能性を秘めた、とんでもない国だと思います。でもやっぱり無理かなー。


ボリビア

(2009.12.18)

 チリのサンチアゴから飛行機はイキーケを経由して、ボリビアのラパスに朝9時過ぎ到着。ラパスの空港は4200メートルと世界一高地にあるため、ここに着いた人は高山病で悩まされるということですが、私は以前来た時もなんともなく、おまけに今回は2200メートルのメキシコ・シティーに2年あまりも住んでいるのですからへっちゃらです。
 
しかし、ここは急な坂が多く、すり鉢状になった街の上にいくほど貧しい人たちが住んでいます。そして底の部分には官公庁や市場など中心地がありバスや車が右往左往しながら行きかっています。
 
道路はいつも車でいっぱいで、おまけにあちこちで団子状態になり動けなくなっています。そして坂のアップダウンは高地に強い私でさえとてもつらくて動くのがいやになります。ボリビアはほかに低地もあり、気候も温暖な場所もあるのに、なぜこんな動くとしんどくなるようなところに首都があるのかと不思議でした。それともみんな高地に慣れているので肺の構造が違っているのでしょうか。

 ここではメキシコの学校で知り合い、友達になったふみさんが働いているので、私がメキシコにいる間に会っておこうとチリに行ったついでにボリビアにもやってきました。
 
彼女の家に泊めてもらうことにし、その日はボリビアの有名なチャランゴ奏者のエルネスト・カブールが館長をしているという楽器博物館に行きました。この博物館のあるハエン通りはかわいいコロニアル建築が並び、ラパスのにぎやかで雑然とした街並みのなかでは少し雰囲気が違っていました。
 
博物館にはたくさんのケーニャやサンポーニャ、ボンボ、ギターなど、民族音楽のフォルクローレに使われる楽器をはじめとして、5方向にネックの伸びた円形のギターや両面にネックのあるバイオリンなど、演奏しているところを見てみたいと思うような珍しい楽器が展示されていました。

 ここボリビアはペルーと並びフォルクローレがとても盛んで多くのライブハウスがあります。しかし、私はいつも一人旅なので、夜遅いライブはほとんど行けません。でも今夜は一緒に行ってくれるふみさんがいるので、エンタメ好きの私にとってライブが聞ける絶好のチャンスです。
 
夜8時、タクシーに乗りライブハウスの近くまで行ったはずが、タクシーの運転手が間違えたのかまったく別のところで降ろされてしまいました。そこで歩いている人に道を尋ねるのですが、きくひと、きくひと全く違う答えが返ってきます。メキシコではいつも3人にきいて多数決で進むのですが、ここでは5人にきけば5通りの返事が返されどうにもなりません。あっちに歩き、こっちに進み、でも結局お目当てのライブハウスは見つけられず、別のところに行きました。それにしてもタクシーの運転手といい、道行く人といい、そのいいかげんさにはあきれ果ててしまいました。
 
行ったライブハウスは有名でわかりやすいところにあったのですが、観光客価格でとても高かったです。音楽のレベルは低くはなかったのですが、そんなに満足できるというものではなく、ちょっと残念でした。

 次の日、ふみさんは仕事に行き、私は世界一高地にあるチチカカ湖に浮かぶイスラ・デ・ソル(太陽の島)に1泊の予定で出かけました。ここでの見ものは沈む夕陽と昇る朝陽です。
 
ラパスからバスで約4時間、途中船に乗り換え10分、またバスで30分、コパカバーナという街に行き、ここからまた船で1時間半、やっと島に着きました。しかし、ここからが大変、ホテルは山の頂近く。ホテルまでひたすら山道を40分登らなければなりません。
 
チチカカ湖が標高3800メートルでそこからまだ300メートル位の上り坂。心臓が爆発しそうでしたが、エクアドルで5000メートルの山にも登ったのだから行けないはずはないとがんばりました。
 
ホテルに着いたときはもうへとへとになりましたが、夕陽を見るには頂上まで登らなければならないので、荷物を置いて少し休むとまた歩きました。
 
山のてっぺんまで行くとちょうど陽が沈みかけていました。白い雲や、ピンクに色づいた雲、空はオレンジ、黄色、薄い緑、青とグラデーションになり、自然の作り出す色彩の多様さには驚くばかり。そしてそれが刻々と変化していくさまは名状しがたい美しさでした。その美しさに心奪われてしまい、気がついたときはすっかり暗くなってしまっていました。急いで下方の薄明かりを頼りに山を降り始めると、大きなバケツをもった小さな子供がそばを通りました。名前はマリアちゃん7歳で、ホテルの近くで飼っている黒豚にえさをやりに行く途中でした。彼女には兄弟が7人いて豚の世話は彼女の仕事だそうです。
 この島の頂上付近には今でもアイマラ語を話すインディヘナが1000人ほど暮らし、急な段々畑でジャガイモや豆などを作り暮らしています。生活は貧しく主食はジャガイモで肉を口にすることもなかなかないということでしたが、そういえば彼女が運んできた豚のえさもジャガイモでした。
 
ラパスでは安い肉が山のように積み上げられ売られているのに、彼女たちはそんな肉さえ口にできずにジャガイモや豆ばかり食べているのかと、ちょっと胸が痛くなりました。ちょうど持っていたキャンデーをあげるとマリアちゃんは「グラシアス(ありがとう)」とうれしそうに帰っていきました。

 翌朝は日の出を見ようと暗いうちから早起きして待機。少しづつ太陽があがってくると湖がきらきらとまるでスパンコールのように輝きだしました。この光のじゅうたんも少しづつ場所と大きさを変えてきらめきます。こちらの方もとても美しく見ほれてしまいました。
 
チチカカ湖畔には紀元前6000年ごろから文化が興り、このイスラ・デ・ソルはインカ帝国発祥の場所だといわれています。神殿跡などの遺跡もあり、ホテルから20分だというので行ってみようと、歩き出しました。しかし行けども行けども何もなく、30分ほど歩くとはるかかなた島の下のほうにそれらしいものが見えてきました。でもこの道を下るということはまたあがらなければならないということ。帰りの船の時間には到底間に合わないので行くのはやめました。それにしても20分で行けるなんてどこからそんな数字が出てくるのか全く理解できません。ホテルのおばさんはひょっとすると昔、短距離走の選手で今でも早く走れるとか、いやいやそんなことはないと思います。ものすごく太っていましたから。

 イスラ・デ・ソルからラパスに帰り今度はウユニ塩湖に行くため夜行バスに乗りました。
 
ボリビアのバスはひどいと聞いていましたが本当でした。座席がとてもせまく、身動きがとれないのです。おまけに乗客が大きな毛布を持ってバスを待っていたので、これは相当寒いのだろうと防寒着をいろいろ用意したのですが、バスは暖房が効きすぎ暑いといったらありません。用意した防寒着が邪魔になりさらに座席をせまくしてしまいました。おまけに道路もでこぼこ道で揺れがきつく、なかなか眠れず13時間の苦しい移動になりました。
 
ウユニ塩湖は標高3760メートル、面積は約1万2000平方キロメートル、20億トンの塩でできた湖で、乾季には水が干上がりまるで雪原のように白一色の世界ができるというところです。
 朝8時に着き、次の日出発の2泊3日のツアーに申し込み、その日はウユニの町でゆっくりすることにしました。ウユニは塩湖への基点になるため観光客は多いですが、町そのものは特別に見るところもない静かなところです。その日はひまそうにしているおじさんとよもやま話などをしながらのんびり過ごしました。

 次の日の朝、フランス、米国、ドイツの若者とカナダの若い女性2人と私という6人のツアーでジープに乗り出発しました。
 
塩湖はとても大きく限りなくベージュに近い白の大平原が広がっていました。あまりの広さにここが湖だとはちょっと信じられないくらいでした。この白い世界は一見、非常に幻想的な大雪原を思わせますが、異なっているのはここには潤いが全くないということでした。「延々と続く乾ききった白い大地」、というのがウユニ塩湖に対する私の印象でした。しかしこの白い大地に太陽が落ちるとき、湖面はオレンジ色に変わり、それは美しかったです。
 
この塩の大地を突っ切り湖のほとりにあるホテルに着きました。しかしツアー会社から予約が入っていなかったようで、ガイドが一軒、一軒、空きを尋ねて回るのです。その中の一軒に空きがあり泊まれることになりましたが、どうにもいいかげんな話です。
 
おまけにこのツアーに申し込むとき1泊はドミトリーだけれど、1泊は個室だと聞いていたにもかかわらず、2泊ともドミトリーだというのです。さらに男女一緒でツアーのメンバーで一部屋だといわれました。私は頭にきて個室がないなら男女別のドミトリーにするよう要求しましたが、ガイドは他の女性たちにこのままでいいかと聞くのです。すると彼女たちはこのままでいいというのです。えー、考えられないと私が彼女たちを説得していると、米国人のサブロンが欧米では男女一緒のドミトリーが普通だというのです。そんな常識はもちろん知らなかったけれど、みんながいいなら仕方ないとあきらめました。

 ツアー2日目はウユニ塩湖からチリ国境に向かいオジャグエ火山や4つのラグーナ(小さな湖)をまわりました。各ラグーナはそれぞれ成分が異なるため赤や緑、黄、青などいろとりどりで、フラミンゴがたくさん生息していました。
 
これらはみんな砂漠をジープで走らないと行くことができないのですが、何十台ものジープが連なるように走るものですからその砂ぼこりのひどいことといったらありません。マスクをしているにもかかわらず鼻の中は茶色くなっています。そして風も強く標高が高いためとても寒くて長く一箇所にとどまる気がしません。
 
体中砂だらけで早く帰って熱いシャワーをしたいと思っていたのですが、宿には水シャワーしかないといわれ、またまたびっくり。この寒さで水シャワー、とんでもない。汚いけれど風邪をひくよりはましだとシャワーはあきらめました。

 それにしてもいままでいろいろなツアーに参加しましたが、このツアーは一番悲惨なツアーになり、そのとどめがその夜のできごとでした。
 
私以外の若者たち5人は英語での会話もはずみ、すっかり仲良くなっていました。私は次の朝4時半に起きなくてはならないので9時にはベッドに入りました。すると夜中の1時ごろ5人が部屋に帰ってきてワーワー、キャーキャー大騒ぎです。どうやらマリファナを吸ってお酒を飲んできたようです。ベッドをひとつに寄せ、みんなでかたまってふとんをかぶり乱キチ騒ぎです。私はもちろん目を覚ましてしまい、静かにするよう注意しましたが騒ぎは収まらず、十分に眠れませんでした。
 翌朝、誰かひとことでも何か私に言うかと思いましたが、誰一人悪びれた様子もなく何の挨拶もありませんでした。男女一緒のドミトリーなどもう金輪際こりごりです。
 もしウユニ塩湖にはバックパッカーが利用するようなこんな宿泊施設しかないのであれば、子供づれの家族やお年寄りでは到底無理です。そこでラパスに帰ってから調べてみました。するとラパスで申し込めば、値段は高くなりますが、小さなジープではなくもっと楽な車をチャーターして湖の周りにある民宿で泊まるという手もあるそうですが、現地でツアーを探すと私の参加したようなものしかないということでした。
 ウユニ塩湖の中には塩でできたホテルがあり、見学のコースに入っていますが、ツアーとなるとこのホテルは使われません。その上ホテルと呼べるのはここだけであとは私が泊まったドミトリーと民宿だけだそうです。
 
ウユニ塩湖という大観光地でこんな宿泊環境だというのはちょっと不思議です。おまけにラパス、ウユニ間の交通手段はあのひどいバスしかないと思いますし・・・・。何も豪華ホテルが必要だとは思いませんが、ウユニに来たいと思っている人がだれでもきやすくなる環境をつくれないものかと思ってしまいました。


チリ

(2009.12.13)

 エクアドルからメキシコに帰り1週間、今度は再度、チリ、ボリビアと旅するために出発しました。夜11時5分の飛行機でサンチアゴ・デ・チリへ。翌朝8時すぎに着き、ホテルに直行。少し休んだあと、いまではビクトル・ハラ・スタジアムから国立競技場に異動になったルイスに会うためでかけました。当初私はビクトル・ハラはここ国立競技場で死んだものと思い込んでいたので、過去2回のサンチアゴ訪問時に2回も来ているので、慣れた道です。

 ルイスは相変わらずのやさしい微笑みで迎えてくれました。1年3ヶ月ぶりの再会です。いろいろたまった話をいっぱいして、彼は国立競技場の中を案内してくれました。やはりここも1973年の軍事クーデターの時に3000人余りが閉じ込められた場所です。今は改装工事中でグランドの中までは入ることができませんでしたが、スタジアムの中には小さな部屋がたくさんあり、ここも刑務所代わりになったと説明してくれました。
 通りかかるルイスの友人たちにもひとりひとり私を紹介してくれ、彼の上司の部屋では1時間余りも話しこんでしまいました。そして、チリではどこに行きたいかを尋ねてくれ、私がパブロ・ネルーダの家や、ワインのボデガ(ワイナリー)などに行きたいというとネットでいろいろ調べてくれました。
 そんなルイスが教えてくれたボデガに予約の電話をいれ翌朝でかけました。

 チリワインは日本でも多く輸入されていて、フランスワインなら5000円はするところが1000円くらいで買えます。「この値段でこの味なら結構、結構」というわけでなかなかの人気ですが、その中でも有名なコンチャ・イ・トーロのボデガにいきました。
サンチアゴから27キロ、バスで約1時間かかりました。入り口で7ドルと15ドルの見学コースがあるといわれ、4種類のワインとそれにあったチーズが食べられるという15ドルのコースにしました。でも日本だとお酒の工場見学は試飲をさせてくれて、おまけにタダなのになーと思いながらもお金を払って中に入りました。
 
社主の大邸宅の庭やブドウ畑、樽によってそれぞれの温度管理がされている倉庫などを見学したあと、ソムリエのサロメさんがワインの味わい方を4種類のワインを飲み比べながら解説してくれました。グラスを傾けたり、回したりしながら色や香りをまず楽しんでから飲むというものですが、今までワインをそんな風に優雅に飲んだことはない私は、それなりにその作法と、チーズをはじめとする料理との相性の話はなかなか繊細な話でおもしろかったのですが、こちらのスーパーで700円位で売られているワインを少し飲むだけで15ドルはやっぱり高いと思ってしまいました。しかし、それにもかかわらずここは予約が必要なほど観光客がひきもきらないのです。

 そのあとぶらぶら庭を散歩していると「そこから先へは立ち入り禁止です」と警備員に言われました。そこで彼と少し話をし、ここで飲んだワインや、観光客の多さ、見学費用の高さなどについての感想を言うと、彼は小声で「この会社はあまりに有名になってしまったので、密かに商標を別の会社に売っているのだよ」といいました。そして、「本当に安くておいしいのはね」といって別の会社の銘柄を教えてくれました。
 
ここで働いているにもかかわらず、私のような外国人観光客にこんな話をするなんて、きっと会社は儲けているにもかかわらず、従業員には安い給料しか払っていないのだろうな、などと思いながら豪華な大邸宅と広大な庭のあるボデガをあとにしました。

 次の日はイスラ・ネグラにある、詩人、パブロ・ネルーダの家に行きました。太平洋を望む高台にその家は建っていました。ここも観光客がいっぱいで予約がなければ入れないといわれました。しかし、「せっかく日本からはるばる来たのだから入らせて欲しい」と頼むと「他の人には内緒にしてね」と受付の女性が特別に入れてくれました。
 
海をこよなく愛したというネルーダの家はまるで船室のようにつくってあり、ドアもトイレもとても小さく、大きなネルーダはさぞかし窮屈に行き来したのではないかと思いました。友人だったアジェンデ大統領とお茶を飲んだという客間は、海と庭に面する2面が大きなガラスになっていてとても明るく、さぞかし話しがはずんだのではないかと思います。また、たくさんある部屋には彼の膨大な美術品のコレクションなどが所せましと並べられ、まるで彼の家は海に浮かぶ美術館のようでした。
 
1973年9月11日、ネルーダがガンで療養中にチリでは軍部によるクーデターが起きました。アジェンデ大統領が死んだあと、家に軍部が乱入、蔵書や調度品を破壊しました。そのため彼は急に容態が悪くなり病院に行く途中、軍部に車から引きずりだされ亡くなりました。アジェンデの連合政府に協力した彼もやはり、ビクトル・ハラと同じようにクーデターにより殺されたのだと私は思います。

 次の日、パタゴニアの入り口にあたるプエルト・モンに行くため8時の夜行バスに乗りました。サンチャゴから1024キロ、約13時間かかります。朝9時に着きましたが、めちゃくちゃ寒くて、あわててて上着を2枚重ね着しました。
 
バスのターミナル近くに宿をとりさっそくツアーを申し込みました。1日目は近くの湖や火山、牧場、川などを回り、2日目はチロエ島という島を巡るのです。しかし降り出した雨でオソルノ火山は全く見えず、美しいはずのジャンキウエ湖の水は暗く激しく波打ち、ひたすら寒くてゆっくり外で観光している気になれず、早くバスに戻りたいと思うばかりでした。

 このようにさんざんな初日でしたが次の日はきれいに晴れ、チロエ島に行きました。ここはアレルセという木を薄く切り、赤や黄色、緑など、色とりどりに塗り魚の鱗のように外壁に貼り付けた家が多く、とてもかわいらしい街です。道路はカミーノ・アマリージョ(黄色の道)と呼ばれチャカイという黄色の花が道路の両側と草原一面に咲いています。そしてここは魚がとてもおいしいところで、昼食に食べたあふれるばかりの貝のスープ、蒸したメルルーサは絶品でした。でも味つけがうすく、これに醤油があればいうことなしだったのですが・・・・。
 それにしても春だというのにこの寒さ。私はがまんできずに毛糸のマフラーを買ってしまいました。行く先々のみやげ物屋には観光客の気持ちを見透かしたようにいろいろな毛糸製品が売られています。他のツアーの人たちも次々カーディガンなどを買い込み、どんどん太っていきました。

 次の日、どうしてもオソルノ火山が見たくて初日と同じツアーに申し込みましたが、約束の時間の15分前にバスターミナルに行ったにもかかわらず、すでにツアーバスは出発してしまっていました。旅行会社の担当者も困惑していろいろ運転手と連絡を取っていましたが、結局どうしようもなく、当初の10倍出せばタクシーで連れていくというのですが、そんなに出せるわけはなく、私一人で路線バスを使っていくことにしました。
 
この日は空も晴れ上がりオソルノ火山がきれいに見えました。頂上に雪をかぶったこの火山は富士山そっくりで、湖のかなたにこれを見たときは、まるで富士五湖から富士山をみているのではと錯覚したほどです。
 
広い緑の草原には牛や馬が放牧され、桜や菊、藤の花が咲き乱れ、カエデの木や、まるで北山杉のような林まで現れては、なんだか日本を見ているみたいで、娘や息子、父や母はいまごろどうしているかなあ、などいつもはあまり思い出すこともない家族がちょっぴり懐かしくなりました。

 日本へのノスタルジーを感じてしまったあくる日、サンチャゴとの中間あたりにあるテムコという町に移動しました。ここはチリの先住民マプーチェが多く住むところです。彼らが住んでいた先祖伝来の土地をチリ政府が材木会社に売ってしまい、今なお、政府と衝突が続いています。3ヶ月前にもデモ隊と警察が衝突し、32歳のマプーチェの男性が亡くなったということでした
 
私のガイドブックにはテムコの情報は何もなかったのですが、行けば何とかなるだろうと行くことにしました。マプーチェの民芸品を売っていた店で、ここからバスで45分のインペリアルという街にマプーチェが多く住んでいるということを聞き、行ってみました。そして、ここで銀細工の小さな店を出している純粋のマプーチェのセフリーノ・チェウケコーイさん(52歳)にいろいろ話を聞くことができました。
 
マプーチェは現在チリとアルゼンチンにまたがって住んでいますが、チリには50万人が住み、主に農業で暮らしを立てています。そしていくつかの家族で共同体を形成しています。彼のコミュニティー、ソト・カルフケオは18家族が所属しそのリーダーには4人の妻がいるということでした。セフリーノさんに「うらやましい?」と聞くと無言で照れたように笑っていました。
 
女性は平均8人の子供を産み、家事をし、子供を育て、美しい織物をつくります。それにしてもどこのインディヘナの女性も同じように重労働ですね。私など2人しか育てていないので、その苦労は想像がつきにくく、本当に頭が下がります。
 
セフリーノさんは若いころは出稼ぎで南米各地を点々として働いていたそうですが、6年前にこの店を出し、古くから伝わるマプーチェの銀細工の首飾りや指輪を作って生計を立てているそうです。なかなか美しかったので私も素敵なデザインの指輪を買いました。
 
いまでは別れて暮らしているという彼の家族の話しなどをしてくれたあと、最後に彼が「いろいろ苦労はしたけれど、私はマプーチェとして生まれてよかったです」と静かに語った言葉がとても印象的でした。

 次の日サンチャゴにもどり、ルイスとまた会いました。そして彼との「今度チリに来たときにはビクトル・ハラの「耕す者への祈り」を原語で歌う」という約束を果たすべく、彼の現在の勤務地である国立競技場の多くの人が閉じ込められていたという部屋の前で歌いました。
 
彼はにこやかに、そして小声で一緒に歌ってくれました。そして、私がビクトル・ハラ・スタジアムでも歌いたいというと、自分は行けないけれど、話をとおしておいてあげると言ってくれ、明日スタジアムを訪ねるよう言いました。

 次の日は土曜日で、ほとんど従業員はいなかったのですが、1年3ヶ月前、ルイスと一緒に私の日本語の「耕す者への祈り」を聞いていたというクラウディオがいて迎えてくれました。そして「話しはルイスから聞いているので是非歌ってください」と言ってくれ、ハラの絵が掲げてあるスタジアムに案内してくれました。
 
私はハラとここで亡くなった人たちに敬意を払うため、ゆっくりおじぎをしてから心をこめて歌いました。スタジアムの構造がよかったのか、私の声はとてもよく響きました。
 
ここでもクラウディオが小さな声で一緒に歌ってくれました。そして歌い終わったあと、彼は少し涙ぐんでいるようでした。何度も何度もすばらしいといって、私の手をとり、そして抱擁してくれました。私も胸がつまってきて、知らず知らずのうちに涙がでてきてしまいました。
 
私がこの歌に出会ってから30年以上が過ぎましたが、今やっと原語で、そしてビクトル・ハラの死んだ場所で歌うことができました。思えば私はこの日を迎えるためにスペイン語という言葉に長年こだわり続け、この年になってからでもなんとかものにするまではと若者たちの背中を見ながらがんばれたのではないのだろうか、という気が今ではしています。
 
ビクトル・ハラが亡くなって36年。しかし私の中ではハラはずっと伝説とともに生きつづけていました。そしてとうとう彼の最期の場所まで私を引き寄せたのです。私は「耕す者への祈り」をビクトル・ハラに捧げるため歌いました。  

沈黙の瞳によみがえれアンデス      すべての息吹きわきいずるふるさと
ぶどうの房も輝く稲も 耕す我らの実りであれ
立ち上がれこの大地に 命かけ身をおこせよ
山も川もその手ににぎれ 耕す君の手に守るときは今
嵐の中に咲く花のように 貧しさに生きるきょうだいよ
いざその手に銃をとれ 種まく手に武器をとれ
奪われてはならぬ我らの祖国 正義と平等の耕す者の国
抱きあい進め 死を恐れず 耕す者よ 立ち上がれ アーメン アーメン

エクアドル

(2009.11.7)  

エクアドル
 
ニセ札をつかまされたまま入ったエクアドルの首都キトは、中央アンデスの4000メートルから6000メートル級の山々に囲まれ、標高は2850メートルあります。

 キトからバスで2時間のオタバロというインディヘナが多く住む町で、大規模な市が開かれているというので行ってみました。ここでアルパカのセーターを買おうとしたときにニセ札をつかまされたということがわかったのです。そのニセ札はだれでもすぐ見分けがつくほどの稚拙なつくりだったのですが、日ごろドル紙幣など使わない私には気がつくはずもありません。うーん、エクアドルに来てまでババ抜きをするはめになるとは思いませんでしたが、何度か試してだめだったら記念にもって帰ることにしました。

 エクアドルを有名にしているのは北半球と南半球を分ける赤道がここにあり、エクアドルという国名は実はスペイン語で赤道のことなのです。

 キトから北に約22キロ離れたサン・アントニオ村に赤道を示す赤い線がひいてあるので行ってみました。ここは今では大きな公園になり、たくさんのレストランやおみやげ屋さんがあります。公園中央には大きな記念碑が建ちその前に赤い線がありました。多くの観光客がこの線をまたいで記念撮影をしています。しかし、ガイドブックには書いてありませんが、この赤い線は本当は違うのです。

 実はここから250メートルほど離れたムセオ・ソァール・インティ・ニアンという小さな民俗博物館の中に本当の赤道は存在しているのです。何年か前に計り直したときにこの事実が判明したのですが、すでに大きな公園や記念碑を造ってしまった後なので、公にはされなかったようです。なのでこのことを知らない人も多いのですが、口コミで広がり知っている人は知っているということになってしまったのです。

 記念碑の守衛さんに「本当の赤道のあるムセオはどこ?」と聞くと「あなたも知ってるの」という顔ですぐ教えてくれました。いったん公園を出てぐるりと回りこんだ場所にその小さな博物館はありました。

 ここには口コミで知ったたくさんの人が来ていました。そしてオープンスペースになっている博物館のなかほどに赤い線がひいてあり、その上でガイドがいろいろな実験をやってくれました。そのひとつは、台所の流しのタンクに水と木の葉をいれ、赤道の真上と北側、南側と3箇所で水の落ちる様子を観察するのですが、北側でやると木の葉は水とともに左回りで落ちていき、南側だと右回りで落ちていき、真上だとどちらにも回転しないでまっすぐ落ちていきました。

 赤道とは地球の北極と南極の間の自転軸と垂直になる点を結んだ線のことで緯度0度、全周は約4万75キロメートルになります。赤道上は年間を通じて日射量が最も大きいため、付近では上昇気流が生まれこれが熱帯低気圧、すなわち台風やハリケーンになるということですが、ここまで顕著に木の葉が左右に回り、赤道の真上ではまったく回転しなかったのには正直びっくりしました。私はいま、ひょっとしてすごい場所に立っているのではないかという気がして少なからず興奮してしまいした。

 次の日はキト生まれでメキシコの壁画運動にも参加していたというオスワルド・グアヤサミンのアトリエに行きました。フィデル・カストロ、パブロ・ネルーダ、メルセデス・ソーサなどの肖像画をはじめとして、インディヘナや労働者、キトの街並みなどいろいろなテーマで多くの作品が展示されていました。そんな中でも民衆の苦しみ、怒りなどを鋭く、力強いタッチで描いた作品が印象的で、特に「手」だけを描いた13枚の連作はそれだけで民衆のすべての生活、思いなどを物語っているようで心に残りました。彼の黒を基調とした鋭い線は非常に鋭角的で、一見冷徹とも見えるそのタッチはかえって対象物に対する冷静な観察眼を感じさせ、私にはとても興味深かったです。

 次の朝、ホテルでの清算に例のババを使ってみました。20ドル紙幣3枚の真ん中に挟み込んだのです。ドキドキしながらなにげなく手渡しました。ヤッター、成功です。こうしてババはみんなに嫌われながらエクアドル中を旅してまわるのでしょうね。

 このあと、キトのバスターミナルから4時間、高山列車に乗るためにリオバンバに行きました。ここは6310メートルあるチンボラソ山やカリワイラソ山(5020メートル)に囲まれた2750メートルの標高の場所で、エクアドルの中央にあり心臓部部分にあたる都市です。アンデス山脈を列車の屋根に乗って汽車で走れるというので人気が高く、私も乗ってみようと来たわけですが、8ヶ月前に日本の若者が屋根に乗っていて、トンネルで頭を下げずにそのまま激突し亡くなったそうで、それ以来屋根には乗れなくなっているということでした。しかし、よく考えると危険きまわりない話ですよね。いくら見晴らしがいいといっても犠牲者がでるまでそのままで走っていたことの方が不思議なくらいです。以前は地元の人も利用していたその鉄道も今では完全に観光客だけになり形も汽車というよりは、バスが線路の上を走っているような変な感じになっていました。

 ちょうど次の日出るという汽車を予約し、その日は6310メートルのチンボラソ山の途中まで登れるというので行ってみることにしました。リオバンバからバスで約1時間、アレナルという場所で降ろしてもらい、そこからジープで第1避難所まで行きます。ここがちょうど4800メートル、そしてそのあと5000メートルの第2避難所まで徒歩で登るというものでした。リオバンバの街から見ていたチンボラソ山は頂上に雪をいただいたとても美しい山でしたが、実際来てみると緑の木など一本もない石ころだらけの乾いた山でした。ジープで送ってくれた運転手はくれぐれもゆっくり登るようにと注意をして帰っていきました。4800メートル、富士山より1000メートルも高いところにいるのだと思うとちょっと感動しましたが、そこからが大変でした。運転手に言われるまでもなく、ゆっくりでないと、歩けたものではありませんし、一歩づつ深呼吸をしながらでないと前には進めません。おまけに細かいじゃりが多くて油断するとすぐ滑ります。注意深くひとあし、ひとあし、大地を踏みしめるようにして歩きました。そしてとうとう着きました、5000メートル地点です。わずか200メートルの登山でしたが、地上5000メートルの空気の薄さだけはしっかり体験できました。

 山の頂上は雲がかかり、はっきりとは見えませんでしたが、雪の白さだけは目に焼きつきました。それにしても5000メートルのところにいても息苦しくもないし、頭も痛くならないのは、きっと2200メートルという高さのメキシコで暮らしているからでしょうね。今では高山病とはまったく無縁の身体になりました。

 次の日の朝、8時のバスでアラウシに行き、そこから高山列車に乗り込みました。何回かのスイッチバックを繰り返しながらその汽車?バス?は山肌を縫うように走るのですが、他の観光客は谷底を見ながらそのスリルを楽しんでいるようでしたが、コロンビアで本当に恐ろしい山道を5時間あまりもバスで移動した私にとって、レールの上を走るバスは安全そのものでちっともスリルなど感じませんでした。そのためこの「悪魔の鼻」という恐ろしげな名前のついた場所を見に行くという高山列車の旅は、私にとっては真新しい感動とはなりませんでした。

 12時半に汽車はアラウシにもどり、そのまま1時のバスでガラパゴス諸島への基点となるグアヤキルに行きました。約3000メートルある高度差をバスは下っていきます。途中のプルミラという村のあたりは、山が段々畑ではなくパッチワークのようになっています。見ている段にはきれいですが、ここで働く人たちにとって斜面での労働は本当にきついだろうと思いました。

 バスは夕方5時半にグアヤキルに着いたため、その日はガラパゴスへのツアーも探せなかったので、セビッチェ(魚介類のレモン和え)を食べてホテルでゆっくりしました。ここはマングローブガニをはじめとして、魚介類がとても豊富で安く食べられるのです。

 次の日、旅行会社でツアーを探しましたが、ほとんどいっぱいで空きがなく、あきらめかけたのですが、なんとかいろいろ探してくれて4泊5日、1373ドルのツアーが見つかりました。それにしても高い。さらに島に入るために10ドル、国立公園の入園料として100ドルかかります。しかし、大型船だとこれより100ドルは高く、おまけに4ヶ月前からいっぱいだということで、より安い小型船が見つかっただけましと考えて泣く泣く申し込みました。

 ガラパゴス諸島はチャールズ・ダーウィンの生物進化論の展開のきっかけとなった島としてあまりに有名ですが、大小133の島があり4島に人が住んでいるだけであとはすべて無人島、「動植物の楽園」と呼ばれています。ここにしかいない動植物が多く生息し、間近でそれらが見られるということで、世界中からの観光客がひきもきらないのです。毎日450人が入島するそうで、一番多いのが米国人で年間5万人、次にドイツ、イギリスと続くそうです。私もその中のひとりなのですが、こんなにわんさか押しかけて本当に自然は守られているのだろうかと少し心配になってきました。

 こんなことを考えながら旅行会社を出たあと、セミナリオ公園に行きました。ここは別名イグアナ公園といわれ、多くの陸イグアナが放し飼いにされています。いますいます、たくさんのイグアナがのそりのそりと歩いています。そして、木々の上にもイグアナがいっぱい、じーと前を見ています。大人もイグアナも極自然にくつろいでいるようでしたが、子供はやんちゃです。イグアナの尻尾をもってぶらさげ、ふりまわそうとしています。やっぱり子供って残酷ですね。

 次の日の朝8時グアヤキルの空港からガラパゴスのバルトラ島の空港へ、ここからバスとフェリーを乗り継いでプエルト・アヨラ港に行きクルーズ船に乗り込みました。同じ船のメンバーはガイドのルイスとクルーが7人、客はカナダ人2人、ドイツ人1人、米国人の若者3人と一組のカップル、スイス人のカップルと私の合計11人。簡単なレクチャーや自己紹介のあとノース・セイモア島に行きました。

 ガイドのルイスに先導され島に上陸するとアシカ、陸イグアナ、海イグアナ、グンカンドリ、アオアシカツオドリなどがいっぱいいます。2匹のアシカの子供が砂にまみれ、たわむれている姿は本当に愛らしいです。アシカは特に人なつっこく人間に近づいてきます。グンカンドリは求愛するとき口の下にある赤いフクロを大きくふくらませます。真っ青な足をしたアオアシカツオドリは孕んでいるときは足の色が白っぽく変化します。海イグアナはみんな海の方をじっと見て動きません。しかし、これは彼らの体温が低いため、海ではなく太陽の方を見ているのだそうです、などなど興味深いルイスの説明を聞きながら島中を歩きました。もちろん触れてはいけませんが、すぐ手の届くところに珍しい動植物の数々。それもまったく人間を怖がらずに暮らしています。

 何回かのシュノーケリングでは大きなゾウガメやアシカと一緒に泳ぎました。小さなペンギンが一生懸命泳いでいるのも目にしました。そして潮を吹く大きな鯨にも遭遇しました。

 ソンブレロ島ではお産をしたばかりのアシカの親子がいました。お母さんのおなかのあたりには血がべっとり。すぐ横には生まれたての赤ちゃんが懸命におっぱいを探しています。そして少し離れたところに一匹の赤ちゃんアシカがポツンといました。お母さんはいったいどこにいるのだろうと心配になり、あたりを見ましたがそれらしいアシカはいなくて、いまだに気にかかっています。

 ラビダ島ではひからびた鳥の死骸が落ちていました。そしてたぶんアシカでしょう白骨がたくさんころがっていました。以前のように人間による乱獲はなくなりガラパゴスの動植物は保護の対象で、1964年に開設されたダーウィン研究所により調査や絶滅に瀕した動物の繁殖などがおこなわれていますが、自然の摂理のなかでの生存の厳しさは変わらないし、また人間が変えることはできないでしょう。そういう意味でガラパゴスはあくまでも自然体で存在しているのだと感じました。


コロンビア

(2009.11.2)

 太古から続く悠久の時を感じさせてくれたギアナ高地をあとに、コロンビアの首都ボゴタに着きました。ここコロンビアは外務省の「渡航の是非を検討するように」という通達が出ているため、みんな非常に危険だと思い行く人が少ないのでしょうか、ほとんど旅の情報がありません。私のガイドブックにもボゴタの地図もなければ、地方都市の記事も3箇所しか載っていません。それもほんの少しです。日本にいて外務省の通達だけを見ているとコロンビア全土が危険だらけといった印象を受けますが、実際毎日そこで暮らしている人もいるわけだし、確かに外務省が危惧するような危険な場所も多くあるでしょうが、そうではない静かな場所もたくさんありそうで、これは行ってみなければわからないのではと常々感じていました。

 ボゴタはアンデス山脈の東、標高2600メートルの高さにある近代的な高層ビルとコロニアルな建物が混在する人口700万の大都市です。コーヒーの国だけあって多くのコーヒーショップが軒を連ね、パン・デ・ケソ(とてもおいしいチーズを焼きこんだ丸いパン。1000ペソ、日本円で約50円)を食べながらコーヒー(日本円で70円から100円)を飲む人たちがくつろいでいます。また博物館、美術館がたくさんあり内容はとても充実しています。その中のひとつ、黄金博物館に行ってみました。

 ボゴタはスペイン人がやって来る前、高度な文明を築いたチブチャ族の都があったところで、彼らの首領は金粉を体に塗り、黄金の装身具をつけ儀式に臨んだということで、これがエル・ドラド(黄金郷)伝説を生み出したといわれています。この博物館には金製品2万点余りが展示され、ヒョウやワニ、鳥などの動物や人物などを表現したその細かい細工には目をみはるものがありました。

 「黄金の部屋」と名づけられた部屋に入ると中は真っ暗でインディヘナの音楽だけが流れています。しかし一瞬、電気がつき、明るくなったかと思うとまわりはすべて金、金、金。光り輝く黄金でデザインされた流れるような文様は丸い部屋全体がひとつの美術工芸品のようです。私は、金は派手すぎてあまり好きではないのですが、このときばかりはその美しさに見とれてしまいました。

 また、コロンビアのメデジン出身のフェルナンド・ボテロが自らの作品やコレクションを国家に寄贈して造られた「ボテロ寄贈館」もダリ、シャガール、ピカソなど多数の有名どころが並び、なかなか見ごたえのある美術館でした。ほかにもディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ特別展を開催していた国立博物館など何か所か回りましたが、それぞれ展示に工夫がこらされ、センスのいいミュージアムが多かったように思います。

 夕方、通りを歩いていると楽しげな音楽が流れてきました。アルパ(ハープ)とギターをかかえた辻音楽師が3人で演奏しています。よく見るとアルパをひいているのは少年です。これがなかなかうまかったので声をかけてみました。彼は13歳のオルマン君でお父さんとその友人との3人でコロンビアの大衆音楽ジャネーラを演奏しているとのことでした。そのうちに知り合いの人が通りがかり、みんなでマラカスなどを持ち演奏を始めました。私にも歌えとうながすので一緒にアドリブで声をいれました。自分たちが楽しんでいるだけにしか見えないにもかかわらず道行く人はお金を入れていきます。ちょっと不思議な気分になりましたが、とても楽しかったです。

 お父さんと一緒にその場にいたオルマン君の友人のファン・デビッド君、11歳は日本にとても興味を持っているらしく、ずっと日本について質問してきます。コロンビアでも日本の漫画が多く放映されているので日本に親しみがあるということですが、その質問内容はなかなか高度で「なぜ日本はエレクトロ技術が高いのか」などと聞いてきます。11歳のコロンビアの少年にそんな質問をされるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしながらもわかりやすく説明するのに四苦八苦してしまいました。

 そういえばインターネット・カフェで日本のニュースを読んでいた時にもカップルから声をかけられ、日本についての質問攻めにあいました。そして別れ際に漢字で自分の名前を書いて欲しいといわれ、茉莉亜(マリア)、辺羅留土(ヘラルド)と書いてあげると大喜びされ、二人は大事そうにその紙きれを持って帰りました。こんなに日本から遠い国で、日本に興味を持っているコロンビア人に会えてちょっとうれしくなった1日でした。

 次の日、ボゴタから北へバスで1時間半のところにあるシバキラの町に行きました。ここには岩塩の鉱山があり、塩で作られた教会があるのです。中に入ると塩の大きな十字架がある礼拝堂がたくさんあり、この鉱山全体が教会になっています。今では別の鉱山で35人が働いているだけということでしたが、この十字架を見た時、多くの礼拝堂をつくった人たちは、暗い鉱山の中での厳しい労働の安全を神に祈りたかったんだろうな、などとちょっとつらい気持ちになりました。

 その夜、夜行バスに乗り太平洋岸に近いコロンビア第3の都市カリに行きました。朝5時半に着き、ホテルを探して落ち着きシャワーを。ボゴタは寒かったのにここは暑い。じっとしていても汗が噴きでてきます。街の中心のマリア公園では珍しくかき氷屋さんがあったので思わず食べてしまいました。バナナやマンゴーをいっぱい入れてくれて1000ペソ(日本円で約50円)安いです。

 メキシコではいろいろ悪い噂があり、私はおまわりさんを見ると避けて通るのですが、ここのおまわりさんはちょっと違って本当に親切です。私が果物屋さんを探してうろうろしていると、声をかけてくれそこまで連れて行ってくれます。そして別の場所をたずねても「そこだとタクシーが便利だ」とタクシー運転手を探して私を目的地に連れて行くよう指示してくれます。メキシコでは考えられない、もう感激です。メキシコのおまわりさんは、その体ではとうてい泥棒など追いかけられないでしょうというおデブさんがいっぱいですが、カリのおまわりさんは背が高く、すらっとしていて、とてもかっこいいおにいさんでした。

 次の日の朝6時半のバスで南に9時間、サン・アグスティンに行きました。ここは紀元前3300年ごろから紀元前3000年くらいに起こったといわれているアグスティナ文化発祥の地で多くの石像が残っています。馬でしか行けない場所があり、四方に散らばった遺跡を5時間かけてめぐらなければなりません。乗馬はまったくやったことがないのですが、馬は初心者でも乗せられるように調教されていると聞き、乗ってみることにしました。

 朝9時、ガイドに助けてもらいながら生まれて初めて馬に乗りました。何とか乗れましたがものすごく怖い。しかし馬は始めはゆっくり歩いてくれるので、少しずつ慣れてきました。慣れるとなかなか気持ちがいいものです。

 まず最初に訪ねたエル・タブロン遺跡にはアントロポソモルファといって半分人間、半分動物の石像があり、顔は人間なのですが、口がジャガーというなかなか興味深い相をしていました。チャキーラ、ラ・ペロタ、エル・プルタルと順に緑に囲まれた山の中の遺跡をめぐりました。赤や青の色がわずかに残っている男女の石像は、まるでお墓を守っているかのようにその前に立ち、なんだかけなげでとてもかわいらしかったです。このころには馬にも大分慣れ、馬上からガイドに質問する余裕も出てきていました。

 しかし、帰り道、馬は登りになると、勢いをつけるためでしょうか、急に走りだしました。ヒェー怖い、あぶみを力いっぱいふんばりましたが、振り落とされそうで生きた心地がしません。おまけに私の馬は道の真ん中を走らず、わきの草がいっぱい生えているところを走るのです。そこには木があり枝が張り出しています。顔を枝にひっかかれそうで、恐ろしいといったらありません。頭を低くしながらなんとか走り抜けましたが、もうくったくたになりました。

 そしてその夜はもう悲惨。体中痛くて、おまけにお尻の皮が直径3センチほど剥けているではありませんか。でっかいバンドエイドなんてないし、シャワーをするとお湯がしみて痛いし、もう馬なんて2度と乗りたくないと思ってしまった私の乗馬初体験でした。

 体中サロンパスだらけで眠った次の日、考古学公園に行きました。ここはきれいに整備され多くの石像が展示されています。特に小高い丘になっているアルト・デ・ジャバパテスは一面芝生で360度の眺望がひらけ、緑あふれた美しい中に石像たちがかわいらしく立っていました。ここの警備をしているエルネストはいつも一人なのですが、この仕事をとても気にいっていると話してくれました。というのはこの丘はいつもさわやかな風が吹き、その風にふかれながら勉強できるからということで、英語を独学しているそうです。スペイン語と英語の両方で書かれたガイドブックを見せながら、ここ以外のコロンビアの遺跡についてもいろいろ教えてくれました。

 次の日、国境越えをするため朝6時サン・アグスティンを出発。乗り合いタクシーでピタリートへ。ここからバスでモコア、パスト、国境の町イピアーレスまで行くつもりだったのですが、モコアからパストまでがすごい道で時間がかかり、イピアーレスまでたどりつけませんでした。2、3000メートルはあるだろうという高い山を、バス1台がやっと通れる幅だけの、ガードレールもないじゃり道をのろのろと曲がりくねりながら登って行くのです。もし対向車とぶつかったらどうするの、と思っていると途中2時間ほど行くとトラックと鉢合わせしました。両方の運転手がなにやら話しあって、結局トラックの方がバックしましたが、もしバスの方がバックするのだったら恐ろしくて身も凍ってしまっていただろうと思います。バスの窓の下は目もくらみそうな深い谷。怖くて怖くて下を見ることなどできません。無理やり眠ろうとしましたが、何せガタガタ道、揺れて揺れて眠ることもできません。運転手に「なんて怖い道なの、あと何時間かかる?」と尋ねていると一人の女性がとなりに座るように言ってくれ、途中でお菓子も買ってくれました。彼女は病院に行くため月に1度このバスに乗るそうですが、私は2度と乗りたくないと思いました。

 パストで1泊したあと、次の日早くイピアーレスへ行きました。国境ではたくさんの両替商がたむろしています。ここで余ったコロンビアペソからドルに両替をしたのですが、どうも受け取ったお金が少ないような気がして自分の計算機でやり直しました。すると両替商の計算機に細工がしてあったのでしょう、33ドルもごまかされていたのです。そのことを指摘すると「ばれたか」というようなばつの悪そうな顔をしながら33ドル渡してくれましたが、転んでもただでは起きぬ小悪党。なんとその中に偽札をまぜていたのです。


ベネズエラ ギアナ高地

(2009.10.29)

 中米4国から帰ったあと、今度はベネズエラ、コロンビア、エクアドルと南米の北方に位置する3国を回りました。まずメキシコからベネズエラの首都カラカスへ。飛行機がカラカスに着くのが深夜の0時5分。今までホテルは予約などしたことがなかったのですが、時間が時間ですし、外務省からはカラカスに危険度1の注意喚起がされているので、予約だけはしておこうとメキシコからホテルに電話を入れたのですが、これが大変でした。というのはガイドブックには60ドルと価格が表示されているホテルなのですが、料金をきくとこの国の貨幣単位のボリーバルで380ボリといわれました。ドルに換算してくれるように言うとこれがガイドブックとはまったく異なり3倍くらいの180ドルという額になるのです。おまけにボリーバルも普通のボリーバルとボリーバルフエルテ(下2桁の0をとった数え方)の2種類の言い方があり、そんなことを知らない私は何軒か電話をする内にすっかり混乱してしまい、予約ひとつ満足にできませんでした。

 しかし、ちょうどその時、家に来ていた友人がベネズエラに友人がいるということで宿の予約とタクシーの手配を頼んでくれました。しかし、まだ問題がありました。深夜なので両替のための銀行はあいていませんし、タクシー代はドルではだめだというのです。うーん困った。私はドルで払えるものと思い込んでいたのです。

 そこで丁度、私のメキシコの友人からベネズエラにいる彼女の友人にテキーラを届けるようことずかっていたので、その人に相談しました。するとその彼が深夜にもかかわらずホテルの前で待って両替をしてくれることになり、なんとか無事に入国できそうになりました。やれやれです。もうこれからは少々安くても見知らぬ土地の空港に深夜に着くような便には2度と乗らないようにしなくてはと大いに反省した次第です。

 当日、飛行機はきっちり0時5分にカラカスに着き、無事ホテルで1泊。

 一夜明け、ホテル代381ボリを支払わねばならないのにお金が足りません。カードで払えば日本円で18000円位になってしまいます。なぜならベネズエラは公式には1ドル2.15ボリーバル・フエルテですが、実際はブラックマーケットがあり、1ドル5.6から6.3ボリーバルなのです。

 ガイドブックに書いてあったホテル料金は闇レート価格でのドル表示だったのです。しかし、普通の両替商や銀行は旅行者には公式レートでしか両替してくれませんし、あらゆるものの値段はどう考えても闇レート価格が妥当なのです。

 ここはなんとしても闇レートのボリーバルを手にいれなくてはと思い、彼に闇で両替をしてくれるところはないかと聞いてみました。すると彼は噂だけですが、と断わって、ある中国食材店を教えてくれました。

 私はさっそくバスを乗り継いで行ってみました。やっと探し当てたその店は住宅地の奥にありました。若い店員に「店主はいるか」と尋ねると、刺青をした、なにやら怪しげなあんちゃんが「何の用だ」と出てきました。私が「両替をして欲しい」というと、店の奥の暗い倉庫に連れて行かれました。なんだかやくざ映画のワンシーンみたいで少しドキドキしましたが、200ドルを1200ボリに替えてくれました。やったー、これでやっとホテル代が払えます。それにしてもベネズエラは個人旅行者にはあまりにつらすぎる国です。

 ここ最近この国の貨幣価値はじりじりと下がり続け、ボリーバル紙幣はだんだん紙切れに近づいています。ドルでは受け取らないといわれていたタクシー運転手は、本当のところはドルで欲しかったみたいでしたし、あるベネズエラ人からも秘かにドルをもっていたら両替して欲しいと声をかけられました。

 この国では外貨の持ち出しも持ち込みも禁じられているため表だっては決してドルを流通させてはいけないことになっていますが、裏ではしっかりドルが幅を利かせ、その力は増しているようでした。

 両替するだけですっかり疲れてしまったその日の夜、夜行バスでマシーソ・グアヤーネス(ギアナ高地)への拠点になるシウダ―・ボリーバルに行こうとバスターミナルに切符を買いにいきました。

 切符売り場は長蛇の列。82ボリといわれ90ボリ出しておつりをもらおうとすると、売り場の女性はいかにも売ってやっているといった横柄な態度で「おつりは今ないから45分待て」というのです。「えー45分どういうこと」とびっくりしてしまい、「私が他の人に両替を頼みますから10ボリ返してください」というと、彼女は「それなら今売った切符を返せ」とえらそうに言うのです。客に対しての失礼な態度にすっかり嫌な気分になりながらも、並んでいる客の列に両替をたのみました。するとひとりのおじさんが「いくら足りないの?」と聞いてくれ、「2ボリです」と答えると「これをあげるから使いなさい」とお金をくれました。彼女の態度に頭にきていたのですが、これで少しは気持ちも和らぎ、ありがたくいただきました。それにしてもあの売り場の女性の態度は日本ではちょっと考えられないですよね。

 その夜9時に出たバスは翌朝6時にシウダー・ボリーバルに着きました。バスターミナルにある旅行会社でギアナ高地へのツアーを申し込み、その日はゆっくりとこじんまりとした町を歩きまわりました。

 シウダー・ボリーバルは人口27万人のベネズエラ有数の都市で広大なオリノコ川が流れ、平均気温は30度。人々が川岸でビール缶片手に涼をとっています。私も川風に吹かれながらビール売りのおばさんとぺちゃくちゃと話しこんでしまいました。

 次の日、飛行場から5人乗りのセスナ機で1時間半、ギアナ高地への入り口になるカナイマに到着しました。カナイマは人口2500人の小さな村で、いまでも原住民族ペモンが多く住み、道行く人々はみんな挨拶をかわしながら歩いているという、なかなかのどかで平和な感じのする村でした。

 飛行場には若いガイドが迎えに来ていてそのままジープで船着場に行き、細長いボートに乗り込みました。ここからカラオ川、チュルン川を4時間あまりさかのぼり世界1の落差983メートルのサルト・アンヘル(エンジェル・フォール)を目指すのです。

 ギアナ高地の総面積は日本の1.5倍。ここにはこの地だけに生息する食虫植物のヘリアンフォラをはじめ原始の形をとどめた珍しい動植物が多くみられます。いまだに人が足を踏み入れられない前人未踏の場所も多く、「太古の歴史をもつ世界最後の秘境」ということで、日本でもしばしばとりあげられています。

 地球は最初はひとつの大きな大陸でした。およそ2億5000年前に始まった大陸分裂の際、ギアナ高地はちょうど回転軸のような場所にあたり、移動することなく留まりました。他の大陸は何度も気候変化の影響を受け変形していきましたが、ここはずっと熱帯気候だったため大きな変化を受けず2億数千年前から変わっていないのです。

 地質は地球上で最古の部類に属する花崗岩でできています。それが2億数千年の歳月の間にやわらかい部分がはぎとられ硬い岩盤だけが残ったため、その姿は垂直に切り立ち、頂上はまるでテーブルのように平らになり、テーブルマウンテンとよばれているのです。

 ここには100あまりのテプイ(ペモン人の言葉でテーブルマウンテンのこと)があり、そのなかでもサルト・アンヘルが流れ落ちるアウヤンテプイは広さ700キロ平方メートルにもおよぶ大きなものです。

 船着場を出たボートは13人のツアー客をのせカラオ川をゆっくり進みます。この川の水の色はまるでコーヒーのようなこげ茶色をしています。これはジャングルに生い茂る植物から出るタンニンが川に流れ込んでいるためです。

 はじめのうちは広くゆうゆうとした穏やかな流れが、進むにつれて急流になってきました。瀬が多くなり、まるでコーヒーがぐつぐつと沸き立っているかのようです。

 ガイドのアントニオは先頭に座り客に、「もう少し右によれ」とか「ボートのへりに手をかけるな」だとか細かく船の重心をとるために指示をだします。真剣な表情のアントニオの細かすぎる指示は、かえって乗客の危機感をつのらせ、だんだん怖くなってきました。彼は大きなごはん杓子のようなオールで右に左にと細長いボートを巧みに操っていきます。大きな岩がたくさんある細い場所を通り過ぎる時など、船がひっくり返りそうで生きた心地がしませんでした。最初はわいわいとにぎやかにしゃべっていたフランス人のおばさんたちも次第に無口になり石のように固まってしまいました。

 4時間15分をかけ、サルト・アンヘルの近くのラトン島に着きました。ここはキャンプ地なので今夜はハンモックで寝なくてはなりません。ゆらゆら揺れながらすぐ眠れましたが、同じツアー客のイラン人のアレックスのすごすぎるいびきには何度も目がさめてしまいました。

 睡眠不足の次の日、朝早くキャンプを出発しサルト・アンヘルをめざしましたが、この登山道が大変でした。ジャングルの中はごろごろ石と大きく根をはった木々の根っことでとても歩きにくく本当に疲れました。しかしあえぎながらも滝にたどりついた時は思わずその特異な滝の姿に目を見張りました。

 この滝は983メートルもの高さから落ちてくるため途中で水がすべて霧になってしまい滝つぼがありません。上方は雲におおわれた滝なのですが途中からはもやだけががたちこめています。世界最長ということで特に有名なのですが、その姿もとても珍しいものでした。

 その日は天気もよく最初かかっていた雲もしばらくすると晴れ、はっきりと全景を見ることができ、とうとうたどりつけたのだという感慨でちょっと胸が熱くなりました。

 ここの見晴らし台はきちんと整備されたものではなく、大きな斜めになっている岩に登って滝を見るのですが、すぐ下は断崖絶壁。「ここから落ちて死んだ人もいるから気をつけろ」とガイドのアントニオがまたもや脅します。彼はガイドになって1年、決して笑い顔を見せない若者で純粋のペモン人だそうです。「なぜちっとも笑わないの?」と聞くと「僕には責任があります。それにここにくるのは年配の人が多いですし」と答えました。そういえば13人のツアーの中でも若者は3人だけ。そんな中で私が最年長、いつもみんなから遅れる私を彼は気遣ってくれて手をさしのべてくれます。そうか、彼が笑い顔を見せないのは私のせいでもあるのかと、今さらながらですが気がつきました。どうもすみません。

 ゆっくり滝を見たあとは下方を流れる川で水泳タイムです。遠くに雄大なテプイを眺めながら、さんさんとふりそそぐ太陽の中、冷たい小さな滝つぼの中での水浴びは最高でした。

 すっかり体が冷えたあとはまた川を下り、カナイマに戻りました。川の両岸に次々と現れるテプイはまるで大きな航空母艦のようだったり、ブルドックにそっくりだったりと、その形も大きさもさまざまで、いろいろなものに見えてきてとてもおもしろかったです。

 2億年ものあいだ変わることなく存在し続けているテプイ。威風堂々としたテプイを眺めながら、私は文明の進歩の名のもとに地球を壊し、ゆがめさせてしまっている人間たちをテプイは静かに見つづけながら、どのように思っているだろうかと、ふと考えてしまいました。


ベリーズ、エルサルバドル

(2009.10.4) 

 まるで生きているかのようなティカル遺跡のジャングルからフローレスにもどり、バスで5時間のベリーズ・シティーへ行きました。ベリーズは3ヶ月以内の観光旅行でも日本人はビザが必要です。グアテマラの旅行社にツアー代金を払う時、ベリーズのビザは国境で取るつもりだと言うと、何の問題もないというので契約したのですが、次の朝来た運転手は私に「日本人か、ビザは持っているか」と聞くので、私が「持っていない」と答えると即座にいやな顔をして、「1時間は余計に時間がかかる」とはき捨てるようにいうのです。「何、この人」とムカッとしながらバスに乗り国境に着きましたが、国境は長い列。バスを降りるとき、運転手に「私はフローレスからベリーズ・シティーまでお金を払ったのだから待っていてくれますね」と言うと、「知らん」とけんもほろろなのです。いくら抗議をしても「知らん、待たん」というばかり。私は頭にきたのですが、こんなことで時間をとってもますます遅くなるだけなので、なんとかなるだろうと長い列に並びました。
 
同じバスに乗っていたフランス人はビザがいりません。私がそのフランス人に「どうしてフランス人はビザが必要なくて日本人はいるの」と怒りをつい彼にむけてしまいました。すると彼は「それはフランスが力を持っているからだ」と答えたので怒り倍増。「くそー、これは単なる差別やー」と彼に言ってしまいました。
 
腹をたてながらも別室で50ドルを支払い外に出ると、なんとさっきのいじわる運転手が近づいてくるではありませんか。やはり契約通り待っていたのです。待つのならなぜあんな客を不快にさせることを言うのかまったく理解できません。グアテマラの観光業にかかわる人間のマナーの悪さにはもう閉口です。

 国境からベリーズ・シティーまでは3時間、港から船で40分のカリブ海に浮かぶ全長7メートルの細長い島、キーカーカーに行きました。カリブ海を見ながらの椰子の木陰での昼寝は、これまでの1泊づつの移動や、夜行バス、国境でのいざこざなどですっかり疲れ果てていた私をよみがえらせてくれました。
 
よく眠ったあくる日、すっかり元気になった私はシュノーケリングをするために船で出かけました。海は透明でたくさんのかわいらしい魚やエイを見ることができました。特にエイはまったく人間を怖がらずガイドに抱っこされているのです。このあたりは海洋保護区になっていて捕獲は禁止されているので、すっかり安心しきっているのでしょうね。
 
夜になるとロブロスターを食べにホテルの近くのレストランへ。全長30センチほどのものでも25ドルです。焼きたてのロブスターと冷えたビールは本当に最高でした。

 カリブ海に元気にしてもらい、次の日はベリーズ・シティーにもどり、ここから北に約50キロのところにあるマヤの遺跡アルトゥン・ハに行きました。公共のバスはないのでタクシーで50分です。運転手のマヌエルは陽気な黒人でレゲエを大音量でかけながら別れた妻がメキシコ人だったとかで、スペイン語でしゃべりまくります。私がラム酒が好きだというと途中で車を止めてラムとコーラを買いこみ「ラムはコーラで割るのが一番うまいんだ」とか言いながらすすめてくれます。レゲエにラムとすっかりリラックスした私をマヌエルはガイドもできるといいながら、アルトゥン・ハ遺跡をすみずみまで案内してくれました。
 
ここは紀元後7世紀ごろ栄えたといわれ、ふたつの広場と宮殿、神殿が残り一面緑の芝生におおわれたとても美しい遺跡です。マヌエルは「どうだ、きれいだろう、フォトフォト」と何度も写真をとってくれ、すっかりごきげんです。次の日は緑一杯の川に連れて行ってくれました。大きな浮き輪におしりを沈め、川を流されながらの水遊びです。涼しくてあまりの気持ちよさについうとうとしてしまいましたが、マヌエルがしっかり浮き輪をもっていてくれるので安心です。2日間専属運転手をしてくれ、「もう帰るのか」と不服そうに空港まで送ってくれました。

 ところでベリーズの公用語は英語ですが、スペイン語を話せる人も多くいます。それはグアテマラやホンジュラスからの移民が多いためです。より安定した豊かな国ベリーズで働くため彼らはやってくるのです。外国人の私がスペイン語で彼らに話しかけると少しびっくりしたように、でもうれしそうに答えてくれます。港の前で小さな店を出すアンドレアは13年前ホンジュラスからベリーズに一人で来たそうです。そのわけを聞くと「ホンジュラスは貧しくて危険だから」と言い、クーデターに心を痛めているようでした。
 
確かにベリーズは他の近隣諸国に比べ豊かなのでしょう、働いている子供をみかけません。
 
昼下がり公園に行くとたくさんの子供たちが楽しそうに海で遊んでいます。私がカメラをむけると次々とかっこよく海に飛び込んでみせ、女の子たちはびっくりするようなセクシーなポーズをとります。底抜けに明るい子供たちを見ながら、グアテマラで山の中にある家と湖を毎日4時間かけて往復しながら洗濯していた10歳のアナや、メキシコのチアパスで観光客にバナナを売っていた6歳のマウラ、4歳のパウチョ姉弟を思い出してしまいました。
 
あの子たち元気にしているかなあと思いながら、空港まで送ってくれたマヌエルに別れの挨拶をしてエルサルバドルに飛びました。夜8時に着き宿を首都のサンサルバドルの旧市街にとりました。エルサルバドルは危険だからと友人にも注意されていたので、少し緊張しながらの入国でした。

 次の日、観光案内所を探しに街に出ました。ひょんなことからJAICA(国際協力機構)の仕事で来ているという女性に会い、宿の場所を聞かれたので答えると、その場所は危ないから変わるように勧められました。彼女は街を歩くのは危険だと運転手付きの車で移動しているそうです。私はその話を聞き、ここはそんなに怖いところなのかとびっくりしてしまいましたが、とりあえず観光案内所でもいろいろ聞いてみようと行ってみました。そして適当な宿の紹介を頼むと、きれいなパンフレットを見せながら紹介してくれたのは、なんと私のホテルのひとつ筋違いでした。「なーんだ、私のホテルはJAICAの彼女がいうほど危険な地域ではなかったのか」と彼女と現地の人との感覚の違いにちょっと驚きました。そこでホテルを変えることはせず、そのまま街に出ました。
 
中央市場はまるで迷路のように道が入りこみ、大勢の人でごったがえしています。それにしても物価が安い。ここの通貨は米ドルなのですが、りんごが1個25セントで、きゅうりも小さいですが20本50セントです。700ミリリットルは入る大きなコップのフレッシュジュース80セントです。私の泊まったホテルもバス、トイレ、テレビつきの大きな部屋で12ドルです。
 
この国はインフレ率が低く中米でもっとも物価が安い国のひとつだそうですが、日本の1年分の生活費でここだと5年は暮らせるのではと思いました。

 次の日はラ・プエルタ・デ・ディアブロ(悪魔の門)という景勝地に行きました。小高い山を登ると360度の眺望で緑いっぱいの美しい自然が広がっています。真っ青の空と、きれいな空気ですっかりリフレッシュ、入国したときの緊張感もほぐれていました。

 あくる日はここにも残るマヤの遺跡ホヤ・デ・セレン、サン・アンドレス、そして紀元前12世紀から紀元後5,6世紀ごろまで続いたチャルチュアパ文化の中心地だったタスマル遺跡やカサ・ブランカ遺跡の4箇所を回りました。それぞれ規模は小さく、まだ調査中のところもあり、いまだにあとでつけたスペイン語の名前で呼ばれるように全容解明は困難らしく、まだまだ時間がかかりそうで した。
 
その中のひとつカサ・ブランカ遺跡の展示室のとなりに日本のろうけつ染めの工房があり、入ってみると、2人のエルサルバドル人の女性が作品を作っていました。そのうちのひとりのクルスさんが「日本の方ですか」と私に聞いてきました。私が「そうです」と答えると、この工房はJAICAから派遣された日本人が作ったもので彼女たちにろうけつ染めを教え帰国、今は彼女たちだけで運営しているそうです。クリスさんは「日本にはとても感謝しています。ろうけつ染めのブラウスやかばんがここに来る外国人によく売れて、私たちは暮らしていけるのです」と言います。作品はデザインもとても美しく「私も記念に一枚買います」というとクルスさんは「染めてあげますよ、時間があまりないので簡単な模様になってしまいますが」と断りながら、きれいなぼかし模様の花柄の手ぬぐいを染めてくれました。ありがたくお礼を言い、腕にかけて乾かしながら、工房をあとにしました。
 
私の友人たちも何人かはJAICAで働いていますが、友人たちの仕事の具体的な成果を見たような気がしてとてもうれしかったです。

 危険だといわれたエルサルバドルではなんの被害にもあわず、陸路でグアテマラ・シティーに戻り、コロニアル時代に作られたという水道橋を探して歩いていた時、とうとう遭遇しました、ピストル強盗です。このあたりは日本大使館などもあり比較的安全だといわれている地域です。大きな道路のそばには公園がありサッカーに興じている人がいて、近くの道路はたくさんの車が走っています。しかし、教えてもらった道を曲がったとたん、急に通りは細くなり小さな木立があり、完全にまわりから死角になってしまう空間があったのです。一人の若い男が「チナ(中国人)?ハポネサ(日本人)?」と聞いてきました。グアテマラ人はほとんど声をかけてくることがないので珍しいなと思いながら「ハポネサ」と答えると、「どこに行くの」と聞きながら近づきじっと私のベルト式のかばんを見ています。これはやばいのではと思ったとたん、シャツの下に隠したピストルをちらっと見せたのです。私はびっくりして「とうとうおうてしもた」と思ったのですが、「アクエドゥクト(水道橋)をさがしているの、アクエドゥクトはどこ」と言いました。すると男は「ノセ(知らない)」と行ってしまったのです。「助かったー」私は一目散に男の反対側に走りました。ここでは水道橋はアクエドゥクトといわずにプエンテ(橋)というらしく、もし自分が知っている場所だったら、教えると言って道案内をしながらすきを見てかばんを奪うつもりだったようですが、知らなかったため行ってしまったのでしょう。今考えるとあのピストルは本物でなかったのかも知れませんが、全く予想もしないところで会ってしまいました。比較的安全だといわれている場所でも突然死角になる場所は現れるし、世界中で安全な場所などどこにもないのだと思い知りました。それにしても私はどこまで悪運が強いのでしょう、われながら感心してしまいます。これで力を得た「天下無敵の大阪のおばちゃん」の旅はこれからも続きます。


グアテマラ、ホンジュラス

(2009.9.28) 

 メキシコにいる間に少しでも中南米の国々を見ておきたいと、夏休みに入るとすぐ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、エルサルバドルと中米4国を回ることにしました。今月はそのうちのグアテマラ、ホンジュラス編です。

 まずグアテマラ空港から直接、アンティグアに行きました。ここは3つの火山に囲まれているため地震が多く、1543年から1773年まで首都として栄えたのですが、あまりの被害続出にグアテマラ・シティーに首都が移されてしまったのです。古い街並みが世界遺産に登録されているのですが、いまだに修復中の建物や地震の廃墟がそのまま観光名所になっていたりするところです。
 
アンティグアからホンジュラスのコパン遺跡に1泊2日のツアーがでているので、2年前のホンジュラス旅行では行けなかったコパンに行くことにしました。折りしもホンジュラスでは6月28日に軍事クーデターが起こっていたので、当初は行くことを迷ったのですが、いろいろ情報を集めてみると、首都のテグシガルパでは集会やデモなどしているようですが、地方はほとんど何の動きもなく静かだというので行ってみることにしたのです。
 
アンティグアからはバスで7時間、朝5時に出発しました。国境ではそれぞれの入国管理事務所が隣り合いみんな和気あいあい。すんなり出入国の手続きも終わりコパンの街へ入れました。昼には着けたのでさっそく街から歩いて15分の遺跡へ。
 
紀元後8世紀ごろ隆盛を極めたコパンにはマヤ文明の代表的な都市遺跡があり、暦の記述と王朝の記録のため作られた石碑や、神聖文字でコパン王朝史が刻まれた72段ある階段ピラミッドなど、とても興味深いものが保存状態もよく残っています。石碑の彫刻は今だに鮮明にコパンの隆盛を物語り、2500以上のマヤ文字が刻まれた30メートルに及ぶ階段は貴重な文字資料として調査が続けられてきました。私はそれを見たとき、その精巧さと大きさにびっくりしてしまいました。それにしても硬い石にここまで細かく彫り続けるマヤ人の根気にはただただ脱帽です。
 
遺跡を見た後、遊歩道を歩いてコパンの街に帰り小さな街を歩き回りましたが、街には観光客はほとんどいなくてレストランも閑古鳥が鳴いています。ホテルもガラガラ、みやげ物屋のおばさんもひまそうにしています。その中の1軒でいろいろ話しましたが、おばさんはクーデターで客が来なくなったことを嘆き、クーデターを起こした軍部を非難します。
 
コパンは遺跡に来る観光客で成り立っている街なので当然の意見だとは思いますが、それにしてもクーデターなんかいったいどこで起こっているの、というくらい平静で、確かに「こんなに静かなのになぜ観光客よ、来てくれないのー」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。街の中心にあるマヤ考古学博物館のフィト・ララさんは「私たちが望むのはただ民主主義と平和です」と悲痛な表情でホンジュラスの政情を嘆いておられました。ただでさえ中南米の最貧国のひとつだといわれているホンジュラスです。早く平和的な解決がなされないと一般国民はどんどん窮地に追い込まれていくという気がしてしまいました。

 そんなホンジュラスから、いったんアンティグアに戻り、今度はここからバスで2時間半のアティトラン湖のほとりにあるパナハッチェルに行きました。ここは湖の周りに多くのインディヘナの村があり、湖を船で航行できます。パナハッチェルに降りたったとたん、たくさんの人が自分の船に乗れと押し寄せてきました。そのうちの一人が私の行こうとするホテルは高くなっているので別の安い宿につれていってあげるといい、船も安くするというのでついていきましたが、宿は安いだけはあるというしろものでした。また船賃も船着場の人と結託して安いと思わせているのではと疑われたので、彼の船に乗るのはやめました。おまけにバスで行けるはずの近くの村も道が悪くてバスでは行けないから自分の船で行けというのです。これもどうも嘘っぽいのでやめました。
 
別の船でサンティアゴ・アティトラン、バスでサンタ・カタリーナ・パロポのふたつの村に出かけました。サンタ・カタリーナ・パロポで湖のほとりを歩いていると女の子が湖で大量の洗濯をしていました。彼女の名前はアナといい10歳、毎朝歩いて1時間の山の中からここまで家族中の洗濯物をしにくるのだそうです。そして、洗濯が終わると山に帰り12時半から始まる学校のためにまた下りてくるのだそうです。毎日4時間、山を登ったり、降りたりしていることになります。いろいろ話していると弟のニコラスがやってきました。3人でお菓子を食べたり、写真のとりあいっこをしながら楽しく過ごしました。ニコラスは初めてカメラを触るらしく、私とアナの写真がうまくとれなくて、いつも片方が切れてしまいます。でもそのうちにちゃんと2人が真ん中に入りとてもうれしそうでした。アナが私に「朝ごはんを食べたらまた12時半にここに来るので待っていて欲しい」といいました。でも私は「次のバスの関係で11時30分には行かなくてはならない」というととても残念そうでした。私もとても残念でしたが、頭に大きな洗濯物のたらいをのせ山に帰っていくアナをいつまでも見送りました。
 
バスの時間までまた湖のほとりを歩いていると、今度はアナより少し小さな女の子が美しい刺繍のテーブルセンターを売りに寄ってきました。いくらかと聞くと100ケツァール(約1300円)といいます。私は高いからいらないというと、いくらだと買うかと聞いてくるので、あまり買う気はなかったのですが、つい「60」と答えてしまいました。するとその子は80に下げ「10は私へのチップにくれ」というのです。私が断ると今度は70に下げ、「私にアイスクリームを買って」となかなかしつこいのです。私はあまりのしつこさに全く買う気がおこらなくなり、彼女が私の言い値の60に下げたにもかかわらず買いませんでした。丁々発止のその間約30分、でも別れてから少し後悔していました。あんなに一生懸命で、おまけに私の言い値の60まで下げたにもかかわらず追い払ってしまったからです。少し反省しながら通りを歩いているとさっきの女の子が、きっと仕事が終わったのでしょうか、私の前を横切りました。そのとき私の顔を見てにこっと笑ったのです。その顔はあの手練手管を使った売り子ではなく一人の女の子に戻っていました。私はなんだか救われたような気持ちになり、思わず彼女に手を振っていました。

 かわいらしくもせつない気持ちにさせられた女の子たちの住む村をあとに、夜行バスに乗りグアテマラの北にあるティカル遺跡に行きました。明け方バスが道の途中で止まり、一人の男性が「ティカル、ティカル」と叫びながらバスに入ってきました。私はびっくりして起きました。ティカルに行くにはバスを乗り換えろというのです。なんだか変だなあと思いながらも、いわれるままにマイクロバスに乗り換えると1軒のホテルの前に止まり、ここに宿をとれというのです。部屋を見ると値段のわりにはいい部屋だったので、そのまま泊まることにしました。そしてもうすぐティカルへのツアーが出発するのでホテルまで迎えにくるといい、おまけにベリーズ・シティーまでのツアーもあると矢継ぎ早に売り込んできます。寝起きだったせいもありますが、そのまま申し込んでしまいました。しかし、あとでよく考えると、なぜあんな中途半端な場所で突然マイクロバスに乗り換えなければならなかったかわからず、よく聞いてみるとグアテマラ・シティーから乗った夜行バス会社が経営する旅行会社が、ティカル遺跡への基点となる目的地のフローレスに着く前に客を先取りしたのだとわかりました。寝込みを襲い、何がなんだかわからないうちに契約させてしまうとは、やりかたが荒っぽくてなんともいやな気持ちになりました。
 
それにつけてもグアテマラの観光業界は競争が激しいのか、観光客をだましてでも客を獲得しようとする業者が多いため油断がならず、何度も腹立たしい経験をしました。長い間いろいろな国を旅しましたが、こんなに疲れる国は初めてでした。
 
それでも気を取り直してその日の朝6時、迎えのバスに乗りティカル遺跡に行きました。ここはグアテマラ北部ペテン市のジャングルに埋もれるマヤ最大の神殿都市遺跡として知られています。紀元後300年から800年ごろ最も栄えたということで、16平方キロメートルの空間に3000にも及ぶ大小の建造物があります。あまりの広さと暑さと睡眠不足で、少しふらふらになりながらも、ひとつづつ大きなピラミッドを見て回りました。その中で特に4号ピラミッドは高さが70メートルあり、ここに登ると眼下は一面の緑の海、1号ピラミッドが顔をのぞかせています。風が吹くたびに木々が大きく揺らぎ、まるで海の底から温泉が湧きあがってきているようで、このジャングルは、今なおマヤの人々の命が息づいているのではないかと思ってしまうほど生命力に満ちあふれていました。


オアハカのゲラゲッツァ

(2009.8.28)

 メキシコでは日本の七五三にあたる、子供の成長を願うための大きな行事が3歳の誕生日に行われます。私の友人のデルフィーナが「妹の孫のフィエスタ(誕生会)が7月24日にオアハカであるので行かないか」と誘ってくれました。折りしも7月27日はオアハカのインディヘナの民族舞踊の祭典であるゲラゲッツァも開かれるので、これも見ることができると二つ返事で招待を受けることにしました。

 オアハカにはデルフィーナのいとこのマウロの車で行くことになり、7月23日の夜、彼女の息子2人とマウロ夫婦の総勢6人で夜0時半メキシコ・シティーを出発しました。2時間ほど過ぎ、私がうとうとしていると、車が急にストップしました。なんとタイヤと車体をとめてある5本の軸のうち3本が折れたのでした。運転手のマウロはすぐ電話で連絡をとっていましたが、なにしろあたりは何もない真っ暗闇、星だけがきれいに光っているだけです。

 4時間ほどすると修理人が車で着きましたが、部品がないとかでマウロと一緒に行ってしまいました。そして程なく別のマウロの親戚の修理工だという人がやって来て直してしまいました。マウロも帰ってきて、さあ出発しようとした時、その親戚の人がもう片方の車輪もとれそうなのに気づき、それからまた部品を買いに行ってしまいました。そして待つこと3時間、やっと両方の車輪が直り、車が止まってから8時間後にようやく出発できました。

 くねくねした山道を車はすごいスピードで走ります。マウロの運転があまりに荒いので生きた心地がしなくて、早く着いてくれないかと願っていると、2時間後、またしても車がストップ。なんと今度はエンジンから煙が上がっているではありませんか。エンジンオイルが空っぽになっていました。「もー信じられなーい」でもこれで車から降りることができると内心はほっとしました。この車まだ新らしそうだったのに、メンテナンスが全くできていなかったのです。

 メキシコでは車はとても高いのです。給料は日本の半分以下なのに車の値段は同じくらいです。そのため大半の人は月賦で車を買うため、返済に追われてメンテナンスにはお金をかけない人が多いのです。おまけに運転が荒いので道路にはトペといって小さな山型の障害物がたくさん作られています。トペの前ではブレーキをかけてゆっくり通過しないと頭を天井にぶつけてしまいます。何度も何度もブレーキをかけなければならないため車は早く痛みます。だから余計にメンテナンスが必要なのですが・・・・。

 おまけにメキシコでは免許証は買うもので、日本のように自動車教習所のテストに合格しないと受けられないものではありません。運転は親に習い、メンテナンスの知識も十分ではありません。友人の話によると、たいがいの人は定期点検などせず、車は故障するまで乗り、故障したら親戚の車に詳しい人に直してもらうというのです。なんとも恐ろしい話です。私はもう二度と個人の車には乗らないことに決めました。

 このように散々な目に会いながらも、バスとタクシーを乗り継いで着いた彼女の妹さんの村は、オアハカのパトロナル・デ・サンティアゴ・アポストルという、山あいにある人口300人の小さな村で、緑にあふれたとても静かな美しい村でした。

 夕方6時に着いたためフィエスタはすでに始まっていました。白のスーツを着たこの日の主役のオスカル君はとてもかわいい子で、みんなに祝福され、はしゃぎまわっていました。バルバコアというトウモロコシの実をつぶしてゆがいたものの上にやわらかい肉がふんだんにのったお祝い料理をいただき、ビールをいっぱいご馳走になりました。祭りのときには呼ばれて演奏するというギターを抱えた親子が、にぎやかなバンダやコリーダ、ランチェーラを演奏し、私もみんなと一緒に踊りました。

 村の半数は親戚だといわれるくらいの村なので招待客の数も半端ではありません。多くの人が入れ替わり立ち代り朝まで飲み、食べ、踊り明かすのだそうです。しかし、私たちは前夜ほとんど寝ていないので、11時ごろにはひきあげさせてもらいました。

 ぐっすり眠った次の日、デルフィーナたちと別れ、私はゲラゲッツァが開かれるオアハカセントロに移動しました。ここにはホテルで働くベトという友人がいるので彼のホテルに直行。そして同じく友人のエリもやってきて1年半ぶりの再会に話がはずみました。

 ゲラゲッツァは年によって開催日が違うのですが、今年は7月20日と27日の月曜日に2回づつステージがあり、この期間中は他のインディヘナの村でも小規模の民族舞踊の祭典が開催されます。華やかなパレードが通りを練り歩き、フェリア・デ・メスカル(ここの名産のお酒メスカルのお祭り)が開かれ、広場では市がたち、メキシコ各地からだけでなく海外からも多くの人がやってきてとてもにぎやかになります。私もベトたちと街を歩き回り、広場では踊りの輪に加わりながら夜遅くまで飲んで、食べて、踊って楽しく過ごしました。

 次の日の朝、ゲラゲッツァ会場があるフォルティンの丘に行きました。1万2000人が入る会場は満員で1時間前に着いたにもかかわらず、席を確保するのに苦労しました。1人でうろうろしていると年配のメキシコ人の男性が「ここが空いているよ」と教えてくれ、その男性の隣に座りました。会場では楽団が演奏を始めていたので観客はすでに盛り上がっていて、踊っている人もいました。

 今年は12の地域からそれぞれの村に伝わっている踊りが披露されました。サン・パブロ・マクイルティアンギスの「エル・トリート・セラーノ」という踊りは、女性が牛に扮し、男性を打ち負かすというユーモラスな踊りで、男性が舞台から落とされるたびに大きな歓声がわき、マッチョの国でのせめてもの抵抗の踊りのようでなかなかおもしろかったです。また、ビージャ・デ・サーチラからはダンサ・デ・ラ・プルマという大きな直径1.5メートルはある丸くて平たい羽飾りをつけて踊る踊りがありました。これはスペインによるアステカ帝国征服の様子を表したもので、ピョンピョン跳びながら踊るものですが、あとでこの羽飾りを持たせてもらいました。あまりの重さにバランスをとるだけでも大変なのに、これで踊るのだからすごいなあと感心してしまいました。

 黒地に色とりどりの花模様をあしらった素晴らしい刺繍の衣装が目をひく、シウダ・イステペックの踊りの音楽は、にぎやかなマリアッチで演奏するワルツで、優美な中に輝く太陽のような明るさのある興味深い踊りでした。このほかにも収穫の喜びを表現したものや、男女の恋のかけひきを表したものなど、それぞれにカラフルな民族衣装と相まってとても美しく楽しいものでした。そして、各踊りの最後にはパンや果物、帽子など、各村で採れたり、作られたものが舞台から客席に投げられ、観客は立ち上がって掴み取るのに一生懸命でした。私は何もゲットできなかったのですが、となりの男性が、獲得したパンをひとつくれました。ほのかに甘くて素朴な味わいのあるおいしいパンでした。

 この男性は毎年ゲラゲッツァを見に来るそうで、「インディヘナの伝統舞踊も民族衣装もメキシコの宝で、メキシコ人の誇りだ」と熱っぽく語りました。しかし私は彼の言葉を聞いたとき、思わず反感を覚えてしまいました。それは、メキシコ人が彼らの伝統芸能や美しい手工芸品をメキシコの誇りだというのなら、なぜインディヘナに対する根深い差別を放置しているのかと聞きたくなったのです。

 ゲラゲッツァの日だけインディヘナはメキシコ中の、そして、世界からやってきた観光客の注目を一身に浴びて踊ることができます。しかし、次の日からはまた、過酷な日常が待っているのです。彼らがきらびやかに、そして晴れ晴れとした表情で踊れば踊るほど、私はとても悲しくなってきました。そして舞台が終わった時、私一人が祭りの余韻の中、トボトボと歩いていました。


エルタヒン遺跡と土のピラミッド

(2009.8.21)

 メキシコには有名なテオティワカンやチチェンイツァーほか多くの遺跡があり、まだ発掘されていないものも含めると6000はあるといわれています。このような膨大な遺跡を調査、発掘するために、若い日本人研究者が大学などに在籍しながら活動しています。そんな彼らが「メキシコ文化研究会」というグループを作り、2007年、2008年、2009年にかけて秋から春までの各半年間でしたが、月に1回、「メキシコ文化を知ろう」と銘うって日本大使館領事部で連続講演会をひらきました。

 「国際都市テオティワカンとその住居」「サアチラ王朝史、モンテ・アルバン衰退後のサポテカ文化」「ミステカ・アルタ」など興味深い内容で私もかかさず参加し、彼らの話を聞かせてもらいました。その中でベラクルス州のパパントラにある、エルタヒン遺跡がテーマの「エルタヒンを歩こう」では、「ついでのおまけの話です」、と講演者のKさんが、ベラクルスの近くのテハールという村で、土でできたピラミッドが最近発見されたという話をされました。ピラミッドはたいがい石でできているので、土はとても珍しく、私は彼のおまけの話に興味津々、土のピラミッドと、もちろんエルタヒン遺跡も見るために出かけました。

 まずは、メキシコ・シティーからバスで5時間半のパパントラに行くことにし、朝9時のバスに乗りました。3時前に着き、荷物を置くと、さっそくエルタヒン遺跡に。バスで30分のはずが1時間以上かかり遺跡に着いたのが4時過ぎ。「あしたもまたきていいよ、無料にしてあげるから」という入り口のおじさんの言葉に安心して遺跡に入りました。

 エルタヒン遺跡は紀元後650年から1100年ごろに栄え、窓のようなくぼみが365あってカレンダーになっている壁がんのピラミッドや、17の球技場があり、タヒン様式のエントレラセスという交錯文様や,ボルタスという、うずまき文様が特徴のレリーフが多く残されています。メキシコの遺跡のなかでは球技場が一番数多く発掘されているのがエルタヒンなのですが、ここの球技場ではフエゴ・デ・ペロタという神に捧げるための競技が行われていました。これはちょうど、サッカーとバスケットボールを足したような競技で、腰と足とひじだけを使い、ゴムでできたボールを球技場の中央付近上方に備え付けられている直径30センチくらいの輪のなかに入れるというものなのですが、その輪が取り付けられている高さは4、5メートルはあり、よくこんな高く小さな輪に手を使わずにボールが入るものだと感心してしまいました。この試合に勝ったチームのリーダーが神に人身供犠されている様子を描いたレリーフが球技場の北東にあります。ナイフを選手の胸につきたてているのですが、石に彫られたその様子があまりに鮮明なので、ちょっとショックでした。だってせっかく勝利したのに、すぐ殺されるなんてあまりに可哀想です。神は負けたものの生け贄など欲しないということで、勝者が捧げられたということらしいのですが、私だったらきっとわざと負けるだろうな、などと考えながら遺跡をあとにしました。

 この遺跡で13年間、フエゴ・デ・ペロタの球技場の研究をしている先の講演会の講師Kさんと食事をしたときに「神は敗者の生け贄は欲しないということで勝者が生け贄になったということですが、それは本当ですか」と私が聞くと、彼は「殺されている生け贄の服が立派だし、またそういう解釈もあるので、きっと生け贄は勝者だろうといわれていますが、本当のところはわかりません」と答えます。そしてほかにもいろいろ質問をしたのですが、いつも答えは「そういわれていますが、本当のところはわかりません」ばかりなのです。ま、確かに見てきた人はいないわけですから、「本当のところはわからない」のが正直なところでしょうが、「考古学という学問は、一見、地味で長い時間がかかる大変な学問だと思っていましたが、考えようによっては結構自由で、限りなく想像力を働かせることができる楽しい学問なのではないですか」というとKさんは、「そうなんですよ。親父には、誰も見てきたもんはおらんし、自分の好きなように解釈しとけばええのだから、楽な学問やな、といわれましたよ」と笑いながら話されました。

 しかし、そんな彼も奨学金だけでやっていく生活は大変らしく、発掘作業やガイドのアルバイトをしながら食いつないでいるそうです。私は「発掘作業はともかくとして、ガイドの仕事はあなたにはむいていないのではないですか」と、つい言ってしまいました。だって正直で実直な彼の最後の言葉はいつも「本当のところはわかりません」ばかりなのです。「観光客はガイドのはっきりした説明を聞いて納得したいのに、あなたのように、わかりませんばかりではね」というと彼も「やはりそうでしょうね」と納得したように苦笑いしていました。

 そんな彼の説明してくれた数々のエルタヒンの話を思い出しながら遺跡を見て回った次の日は、ベラクルスに移動しました。ベラクルスはパパントラからバスで5時間。スペイン人征服者エルナン・コルテスが1519年アメリカ大陸初の殖民都市をつくったのがここベラクルスです。バスターミナルのとなりに宿をとり、すぐに路線バスに乗って1時間、テハールに着きました。土のピラミッドはラ・ホヤ遺跡と名前がついているのですが、タクシーの運転手に聞いても知らないといわれ、道行く人に聞いても首をふられ、ちょっと途方にくれてしまいましたが、雑貨屋のおばさんが「ああ、セサリオさんの家やね」と教えてくれました。そして、そこの家に行くとセサリオさんの親戚の人だという男性がでてきて、好きに見ていいといってくれたので、見学させてもらいました。

 ありました、ありました、大きな敷地の中に高さ7メートル、横幅10メートル、周囲30メートルくらいのちょっと小ぶりの土のピラミッドが。半分くらいは崩れていましたが、階段やらが残り、確かにピラミッドに間違いありません。しかし、2年前に発見されたばかりなので、このピラミッドについては手付かずで何もまだわかっていないのだそうです。ここは個人の敷地のため、まず政府がこの土地を買い取ることから始めないといけないのですが、どうやら話は進んでいそうにもありませんでした。なにごとにものんびりのメキシコのことですから仕方がないのかもしれませんが、なにせ土ですからいつまでも野ざらしにしていては崩れてしまうと、私ひとりがやきもきしてしまいました。


フチタン

(2009.7.5)

 先日、インディヘナ(先住民)についての授業でメキシコに女系社会が存在し、ムシェと呼ばれる女性として生きる男性が多く暮らす町があるというフィルムを見ました。それはオアハカ州にあるフチタンという人口9万人の町です。またここではすばらしいウイピルという刺繍の民族衣装が作られているので、別の伝統工芸の授業でもこのフチタンが取り上げられました。フチタンでは男性が夜明けの4時ごろから朝7時ごろまで魚を取り、それを加工して女性たちが市場で売る。女性が経済と家族の中心に座り、働いているのは女性ばかりで、男性はお小遣いをもらって、魚を取った後は一日中ぶらぶら過ごしているというのが、その授業での先生の説明でした。しかし、私はムシェの話はともかく、男性が3時間ほどしか働かないという話も、女系社会の存在とフチタンの経済を担う女性を賛美しているそのフイルムも全面的には信じられませんでした。なぜってここフチタンはインディヘナのサポテコが多く暮らすところです。概してインディヘナの世界には男尊女卑的な考えが根強くありますし、それにメキシコはなんといっても伝統的にマッチョ(男らしさを賛美する考え方)の国です。

 しかし、もしそのフィルムが伝えていることが本当なら、とても興味深いことなので、この目で確かめるべくフチタンにセマナ・サンタの休みを利用して行ってみることにしました。

 4月3日、金曜日の夜行バスに乗りメキシコ・シティーから南に12時間。朝8時にバスは小さなターミナルに着きました。荷物を置くとさっそく町の中心にある女性が多く働くという市場に行ってみました。市場はおびただしい数の店舗が、まるで迷路のように広がっていました。魚、肉、野菜、果物、花、民族衣装と、あらゆるものがここで揃うのではないかという多彩さでした。私はおなかがすいていたので、塩で焼いた大きなかつお一切れを買って食べました。きっと朝、取れたものなのでしょう、脂がのってやわらかくて本当においしかったです。縦10センチ横20センチくらいの大きさで15ペソ(120円)安いです。

 ここフチタンは日中はとても暑いのですが夜になるとさわやかな風が吹き、とても気持ちよくなります。私も夜風に誘われるようにホテルの近くの小さな教会に行ってみました。すると明日のパレードの用意をするために40人あまりの人たちが集まっていました。男性たちが1メートルくらいの椰子の葉っぱを裂いて上から三分の1くらいのところに15センチほどの椰子の茎をくくりつけ十字架を作っています。女性たちはコーヒーや軽食を用意して長いすでおしゃべりしています。300本作らないといけないとかで、男性たちは子供にも手伝わせて頑張っています。横で見ていた私にもコーヒーが運ばれてきました。「見ているだけなのにどうもすみません」とありがたくいただきながら、ここで夫婦で歯医者をしているというポルフィリオさん、リリアナさんに女系社会の有無と、私の持っている疑問を投げかけました。すると彼らは女系社会については「昔はどうか知らないけれど、今はもうないと思うよ。それに男はあまり働かないなんてことはないよ。男も女も協力して暮らしているよ。現にうちもそうだし、どっちかが力を持っているとかいうことはないですよ。」と顔を見あわせながら答えてくれました。「やっぱり、男が3時間しか働かないなんてことはないんだ。それに女性ばかりが働いているということでもないし、女性が男性より力をもっているということでもないのか」と、いろいろ考えていると、彼が「明日は朝7時に集まり、パレードをするのであなたもいらっしゃい」と言ってくれたので早起きすることにしました。

 次の朝、音楽隊を先頭に手に手に昨晩作った椰子の十字架を持って信者たちが町中を練り歩きます。子供は白の長い服に紫のマントをはおりポニーに乗って行進します。この日はセマナ・サンタにおける最初の日曜日(ドミンゴ・デ・ラモス)でキリストがイスラエルに入場する様子を表しています。このあとセマナ・サンタの行事はキリストの死と復活を再現しながら次の日曜日(ドミンゴ・デ・パスクア)まで続きます。

 1時間ほどパレードしたあと教会でミサがあり、そのあと教会の裏手に移動し、みんなに大きな魚のフライと野菜、フリホーレス(豆をぐつぐつに煮たもので、甘くないあんこのペーストみたいなもの)、芋や果物の甘煮がのったお皿が配られました。私にもビールと一緒に渡してくれました。なんだか部外者なのに申し訳ないと思いながらおいしくいただきました。おまけにお皿はここの特産の、土でできた伝統食器なのですが、記念にもって帰るようにいわれ、さらに感動してしまいました。ベラクルスから親戚が暮らすフチタンに休暇で来たというディエゴさんといろいろ話しながら食べ、このあと彼にパンテオン(墓地)に行ってごらんといわれ、行ってみました。

 パンテオン一帯はまるでお祭りのように露天が並び、小さく仕切られた各墓地はいっぱいの花で飾られ、その前で家族が飲んだり食べたりしています。墓石の前では楽団がにぎやかな音楽を奏でています。きっと死者が音楽好きだったのでしょうね。きれいな刺繍の民族衣装を着たおばあさんが二人、お墓の前に座っていたので写真を撮らせてもらおうと話しかけると、缶ビールとイグアナの入ったタマーレス(とうもろこしの粉を練って中に肉などを入れ、とうもろこしの皮に包んで蒸したもの)を差し出してくれました。イグアナはここではポピュラーな食べ物で、私はもちろん初めてでしたが、やわらかい鶏肉のようで、なかなかおいしかったです。これもありがたくいただきながらここでも女系社会について聞いてみました。夫が早くなくなったので7人の子供を女手ひとつで育てたというアイーダさんに「女系社会は残っていますか」と聞くと、「そうだね。男はみんなアメリカ合衆国に出稼ぎに行くからね。残るのは女ばかりだから」という答え。「うーん?ちょっと違うなー」と思いながらもお礼をいって別れました。

 このほかにもそれまでにいろいろな人に聞いてみていました。観光事務所のネレイダさんは「女系社会は伝説でしかないです。ここでは男も女もともに働きお互いがお金を平等に出し合っています。どちらかが主導権をもっているということはありません」と共同性を強調します。そして図書館の受付にいたジョランダさんはフチタンに関する本をいろいろ見せてくれながら「女性が権力をもっているということはないですね、男も女も役割分担をきっちりして両方とも働いていますよ。いまでは女系で続いているという家族もそんなにはいないと思いますよ。」と言います。うーん授業で見たフィルムは古かったのかしら、などと思いながら、男性にも聞いてみようと、市庁舎に行き、フチタン知事の秘書・ビルへリオさんにも聞きました。すると彼は「残っていますよ。現に僕の家がそうです。女性は強いですからね。」とほかの秘書の女性たちと笑いあいながらいいます。このいいかたはなんだか冗談半分のような気がするし、多くの人に聞けば聞くほどわからなくなりそうなので、もうこのあたりでやめることにしました。ただ彼らの話しを総合すると女系家族も少しは残り、女性が働いている率は高く、経済力のある女性も多いので、ここフチタンでは女性が力を持っているといわれるのかもしれないな、また、先住民が多くてもここでは結構、男女の協同性が成立しているのかな、などといままでに聞いた話しをいろいろ考えながらパンテオンを歩いていると、にぎやかなランチェーラが聞こえてきました。その音楽につられてコンサート会場に入りました。するとまたしても「ビール飲む?」と女性が聞いてきます。うなずくとビール瓶が渡されました。2本飲んだあと、いくらなんでもこれは商売だろうと「いくらですか」ときいても「いいよ、これはあっちの男性の一箱分の中からだからお金はいらない」といわれます。結局その男性にお礼をいって会場を出たのですが、今日は朝からいっぱいビールを飲んだにもかかわらず、すべておごりでした。本当になんて気前がよくて親切な人ばかりの町なのだろうと感心してしまいました。

 そういえばここでは私が外国人であるということを忘れさせてしまう心地よさがあります。誰も私を特別視しないのです。むこうからやってきて質問攻めにすることもありませんし、じろじろ好奇の目で見られることもありません。もちろんメキシコ・シティーでよく経験する「チナ(中国人?)」と声をかけてくることもまったくありません。その視線が自然なのです。でもこちらから声をかけるととても親切に対応してくれますし、目があうと必ず笑いかけてくれます。きっとこのような、人に対するなにげなさがムシェの人たちが住みやすいと感じるゆえんなのでしょうね。結局私の女系社会に対する疑問ははっきりとは解明されませんでしたが、フチタンがとても居心地のいい町だということだけははっきりわかりました。


新型インフルエンザ、その後 

(2009.6.1)

 4月の末、メキシコから始まった新型インフルエンザの世界大流行でしたが、ここメキシコではあのことはまるでうそだったかのように、すっかり沈静化して、日常生活がもどっています。いまではマスク姿もほとんどなく、食べ物を売る店の人も申し訳程度のあごマスクです。私も5月の中旬くらいまでは、日本から友人が心配して送ってくれたマスクをしていましたが、今ではなんだか「私はインフルエンザにかかっています」と宣伝しているみたいで肩身がせまく、そのうちバッグに入れて外出することも忘れるようになってしまいました。

 メキシコで4月23日、最初に発表された死者数68人も時間がたつにつれて減り、また増えと情報は錯綜しましたが、この数字はメキシコの検体能力が当初はなく、はっきりと新型インフルエンザとわからなかった人もすべて含まれてしまっていたためでした。持病をかかえていた人も多く、その中の半数近くは超肥満の人だった、とかいわれています。メキシコにはとても太っている人がたくさんいます。100キロ越しているのはざらで、日本の肥満とはスケールが違います。食事は脂っこいものを大量に食べ、大好きなおやつはコーラとポテトチップスです。これで太らないはずはなく、ゆさゆさと巨体を揺らしながら歩いています。それでいてテレビは、やせ薬やダイエットマシンのCM花盛りなんですよ。なんともせつないことです。

 衝撃が世界中をかけめぐってから、私の学校では5月はじめには日本人が大半いなくなりました。私はもちろん帰国しなかったのですが、メキシコから世界へと感染が広がるなか、今では帰国しなかった私の判断は正しかった、と友人や家族からお褒め?の言葉をもらいました。

 私は帰国をみんなから勧められたとき、3つの理由をあげ、帰国しない旨を伝えました。まず1つ目は、この事件がはじめてメキシコで起こり、日本人の友人たちが、次々帰国するといってきたとき、「帰るところがある人はええわなー。どこにも逃げるところがないメキシコ人はどないしたらええんやー」と密かに心の中で思ったのが1番の理由でした。そして2番目はこの事件はメキシコから始まったのだから、そのあと世界に広がっていくでしょうが、1番初めに収束するのもメキシコからだと思いました。そして今、まさにその通りになりました。3番目は日本に帰ったら機内検査で4、5時間拘束されるということでしたし、おまけに最初の感染を疑われた女性に対する人権蹂躙とも思われる対応ぶりを知って、帰りたくないと強く感じたことなどでした。

 足早に帰国した友人たちは、帰ったことを後悔している人も多くいます。ある女子学生は帰国に関して学校側は彼女の判断に任すといってくれたにもかかわらず、彼女のお母さんが1日に5回も泣きながら、少しでも早く帰るようにと電話をしてきました。彼女はこのまま勉強を続けたかったにもかかわらず、お母さんを説得しきれず、泣く泣く帰国していきました。そして日本に帰ったら今度は復帰した日本の大学が休校になり、ふんだりけったりの目にあったのでした。

 そして別の友人ですが、彼女とは帰国の前日会いました。やはり彼女も帰国したくなかったにもかかわらず、お母さんに懇願され帰ることになりました。帰国してから10日間はホテルに泊まるよういわれたのですが、日本円がないので、お母さんが空港までもってきてくれることになりました。そのときお母さんは「マスクをして封筒に入れたお金を、おはしで渡すから」といわれたそうです。彼女はすごいショックをうけ、すっかり落ち込んで泣きそうになっていました。

 それはそうですよね。まだ感染しているとわかったわけではないのに、実の娘をバイキン扱いするのですから、彼女が落ち込むのは当たり前です。私は彼女に「お母さんをここまでおかしくさせているのは日本の報道やろうから、決してお母さんを恨んだらあかんで、ほとぼりがさめたら、きっと元のお母さんに戻らはると思うで」と声をかけることしかできませんでした。

 私は日本の新型インフルエンザに関する報道はネットでしか見ることができませんでしたが、彼女たちの家族の反応ぶりをみると、その過剰ぶりが十分想像できました。日本にいる家族がここまでヒステリックになり、冷静さを失くしてしまうような報道内容だったのではないかと思います。

 この間のメキシコの実態とはかけ離れた報道といい、こんなときだからこそ、最も必要であるべきはずの冷静さを失わせてしまうような報道といい、私は今、ノーテンキすぎるメキシコにいながら日本を思い危機感をつのらせています。それは、もし、これから対応の仕方いかんによっては戦争につながってしまいそうなことが起こった時、相当ヤバイことになるのではないかという気がしてしまうからです。


豚インフルエンザ

(2009.5.2)

 今、豚インフルエンザのニュースが世界中を飛び交っています。私は一番死者の多く出ている、メキシコ・シティーの中心部セントロに住んでいます。今では朝起きたらネットでニュースをチェックすることから1日が始まります。
 どんどん深刻さを増すニュースを見たあと町に出ると、そのあまりの乖離にとまどってしまいます。町はいつもと変わらずたくさんの露店が出て、野菜や果物、帽子や洋服、文房具などを売っています。ピラタ(海賊盤のCD)を売っている店は大音量の音楽を流しています。市場も多くの人でにぎわっていますし、立派なレストランは閉まっていますが、食堂や道端のタコス屋さんは人であふれています。

  マスクをかけている人も3割くらいであごの下にかけている人も多いです。メキシコは日中は30度を越すことも多いのでずっと口をふさいでいるのはちょっとつらいものがあります。それにしてもこのマスク、青色の紙でできていてとてもチャッチイのです。こんなもので予防効果があるのかなと疑いたくなるような代物です。地下鉄の駅で配布しているというので行ってみましたが、誰もいません。仕方なく薬屋を3軒まわりましたが、すべて売り切れでした。でも私のアパートの門番さんが、どこからかたくさんもらってきてくれて、やっとゲットできました。

 豚インフルエンザがはじめてメキシコで公表されたのは4月23日の夜11時、テレビを通じて緊急発表され、68人の死者、1004人の感染の疑いのある人がいるということでした。しかしこの死者の数字も豚インフルエンザだと確認されたものではなく、疑わしい人も混ざった数字で、いまでは本当は20人だった、いや7人だったなど、情報は二転三転しています。

 緊急発表の次の日の24日から学校や大学が休校になり、映画館も閉館、コンサート、集会などもすべて中止となりました。サッカーの試合も観客を入れずに行われました。私の通う大学も、今は一応5月6日まで休みということですが、一方では無期限だという報道もあり、どっちなのかはよくわかりません。そして今では少しずつ死者や感染者の数も増え続け、世界に感染が広がっています。メキシコ政府は薬も十分あるし、パニックに陥らないようにとよびかけ、感染予防を勧めています。うがい、手洗い、マスク着用、そしてキスをしないこと、とあります。これはいかにもメキシコでしょう。

 しかし、町をみている限りにおいては、感染予防は徹底されているとはいいがたい状態です。マスクをしている人の割合の低さをみても、危機感があまり感じられません。メキシコ人の持つ楽天性なのかもしれませんが、ノーテンキなひとが多いという気がします。

 テレビもやっと、WHO世界保健機関の警戒レベルがフェーズ4に引き上げられたころから特別番組を放送するようになりました。しかし、そんなに長い時間ではありません。日本では連日、すべてのワイドショーが豚インフルエンザの話題を取り上げ、マスクのつけ方まで伝授していると聞き、「それはあまりにやりすぎでしょう」とちょっとあきれてしまいました。逆にメキシコはあまりに情報提供が遅すぎますし、情報が各省庁で違っていたりと、全面的に信用できるものではないのが困ったところです。国民は「政府は何か隠しているのではないか」という疑いを持っています。

 フェーズ4になった段階で、私の友人で公費で留学している人たち、特に官公庁から派遣されてきた人たちは、すぐに帰国しなければならなくなり、別れの挨拶もそこそこに飛行機に乗りました。また、こちらの日本企業に勤めている人たちの家族も飛行機の便が取れ次第、次々帰国しました。私の友人も子どもをつれて帰りましたが、彼女が「このまま帰ってもバイキン扱いだからね」とさびしそうに言った言葉が忘れられません。そういえばメキシコからの初めての帰国便のアエロメヒコが成田に着いたときも、ものものしい警戒態勢だったそうですね。

 私の家族や友人も、まるでメキシコはバイキンだらけになっていると思っているかのように心配して、何度も何度も連絡をしてきます。それはやはり日本の報道があまりに大げさすぎて、メキシコの実態とはかけ離れているからでしょう。家族を安心させるために、メキシコの現状や日本大使館の対応などを説明しながら、不安感を払拭するのに苦心惨憺です。これから事態はどのようになっていくかはまったくわかりませんが、家から出られない日が相当続くことでしょうから、静かに勉強することにしました。そして学校が始まる時には、辞書なしで新聞が読めるようになっていれればいいなー、なんて思っている私です。


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