ばんざい〜復興落語会

和歌山県新宮市熊野川町 


 2月27日、露の新治さんが和歌山熊野川町の私たちの山里で「復興支援落語会」を開いてくれました。昨年9月の台風12号で32軒ほどの私の里も17軒が水没し、今は更地になっています。そんな折に新さんから連絡があり、ボランティア落語をやってもらえることになりました。落語会は「さすが新治師匠ッ!」のすばらしさでした。「相撲場」で腹を抱えて大笑いし、「鹿政談」で笑いのうちに優しい気分になり、「中村仲蔵」では笑いと涙が心にしみていきました。帰りには「ありがとう」、「よかったよ」、「涙がでたよ」と誰彼なしに握手を求められました。ほんとうに「有り難い」という文字面が心にしみました。以下地元の新聞の記事を紹介します。

 復興への元気届ける 露の新治さんおたのしみ落語会 
 落語家の露の新治さんは2月27日夜、新宮市熊野川町の能城(のき)集会所で復興支援落語会「笑いやる場合とちがうんやけど〜今夜はつれもて笑いましょ〜おたのしみ落語会」を開いた。能城区や周辺の住民約60人が訪れ、笑いと人情にあふれる落語に笑顔を見せていた。露の新治さんは能城区の住民で落語会の世話人・新垣さんの友人で、昨年の台風12号による被災状況を知り、28日に三重県御浜町で講演会を開くのを前に、元気づける機会になればとボランティアでの落語会を申し出た。これを受けて、新垣さんや下阪殖保区長らが、周辺地区にチラシを配って声を掛けたり、 会場設営や振る舞うお菓子を作ったりして、手作りの落語会を作り上げた。露の新治さんははじめに「心と体はひとつ。楽しいと笑いますが、笑うと楽しくもなってきます。こんな時だからこそ笑うしかない」と話し、誰もが誰かに とっての「宝の子」、頑張るではなく「願生る(がんばる)=願いに生きる」などの言葉を紹介し、「生まれただけでもうけもん。誇りを持って笑って生きま しょう」と呼び掛けた。続いて相撲見物客らのおかしな様子を描いた「すもう場」、奉行の人情裁きを描いた「鹿政談」、たゆまぬ努力が最後に実を結ぶ「中村仲蔵」を披露。会場は終始笑いに包まれ、人情話では感動で涙を流す人も。話が終わるたびに大きな拍手が沸いていた。下阪区長は「笑えば元気になるし、誰かと話すだけでも元気になれる。今回手作りで企画しましたが、多くの人に来てもらって楽しんでもらえて元気が出た。 こういう元気が復興につながっていくのかなと思う。復興も役場任せにするのでなく、最後は自分たちの気持ちが中心になると感じた」と話した。
2012.2.27

 新治さんが、「ここへ来て見なければ被害の状況は実感できへんかったなぁ。台風12号のことははっきりいってもう忘れてるもんなぁ。しっかり知らせなあかん。」と何度も言ってくれましたので、少し長くなりますが台風12号での私の里の状況を書かせてもらいます。

 熊野川町には33の地区があり、ほとんどが斜面に張り付いた集落です。この台風12号では熊野川の水面が20m以上は増水したと思われ、私の里の能城(のき)も山の斜面に張り付いた集落ですが、それでも半数以上の家屋が水没しました。すべての家屋が水没した里もありました。まさかの想像すらできない状況の中で多くの人が逃げ遅れ、その人たちの救出が9月3日深夜から4日明け方にかけて懸命におこなわれました。流木などが散乱する危険な中を何回もボートを往復したり、年寄りを背負って屋根つたいに上段の敷地に助け上げたり、畳3枚を重ねて筏代わりにして助かった人もいました。2階の屋根裏まで逃げて壁を蹴破って脱出口を開けボートで助けられた生後3週間の赤ん坊を抱えた家族もいました。アパート社宅三階の天井まで浸かり屋上に避難し一夜明けた昼前にやっとボートで救出された11人の人々は、濡れた衣服のまま恐ろしさと寒さにブルブル震えていました。ライフラインがすべて閉ざされ道路も遮断されて情報も一切ない中で、里々の惨状はつまびらかではありませんでしたが、車があちこちで横転し折り重なり崖の上に吊下がり、橋は無数の流木がサンドイッチに包み込んでいる状態でした。熊野川沿いの家屋の多くが土台を残して跡形もありませんでした。2ヶ月が過ぎた11月頃にはやっと里を流れる赤木川は清流に戻りましたが、熊野川はまだ泥流のままでした。熊野川上流の本宮の八咫(やた)の火祭りの看板が黒潮に乗り千葉県の九十九里浜に流れ着いたという話が届き、太平洋に注ぎ込む濁流の勢いを計り知ることができました。

 4日朝、私は浸水の様子をビデオカメラに記録しました。(7日に東京から危険な道もかえりみずにたどり着いた息子が、この映像をインターネットのユーチューブというサイトにアップしています。アップ者名はadandyinaspic1です。「紀伊半島・台風12号の大水害の様子」で検索できます。) ただ被害のなかった私は、個々の被害家屋の惨状はどうしてもビデオに記録できませんでした。4日夕方には水が引きました。家屋の周りは泥が積もり、家の中は何がどうなっているのか判然とせず、5日から被害のなった私たちで片づけをはじめましたが、呆然としてただ運び出して廃棄するだけの虚しいばかりの作業でした。

 この地域は7月の台風6号でも田圃と国道と国道沿いの家屋が浸水し、辺り一面大海原になり陸の孤島でした。このときも私は驚愕しビデオに記録しました。でも報道はほぼゼロでした。東日本大震災でも、おそらくマスコミが入れない地域はこんな風に取り残されているのだと感じました。台風12号でも状況は同じでしたが、紀伊半島全体の惨状を知るにつけ、公助を待つことなく、里の人々の弛まぬ共助・自助の営みに心を寄せるのが復旧を確かにする一番の手立てと思いました。国道沿いの食品店は7月の台風6号で浸水し、食品冷蔵庫を買い換え新装したところを、台風12号で2階家屋が屋根まで水没し一切をなくし、もうダメだヤメたと肩を落としていましたが、今は店を再開しています。10月初め頃、東北から届いた便りと同じように、海岸沿いの新宮市では葉っぱの散った桜の樹に花が咲き、能城の里でも桃の樹に花が咲いて、不思議な和みを与えてくれていました。

 熊野川町では、私たちが後片付けにクタクタになってヘバリかけていたときに、東北を支援していたピースボートの人たちが中心になってボランティアセンターを立ち上げ、今も復旧作業に奮闘してくれました。被災した里の人たちの復旧は、まだ途に付いたかどうかの半歩一歩の時点ですが、様々な人たちの厚情が支えになっています。ただ被災を逃れた私たちと被災した里の人たちの落差が日を追って大きくなっていくにつけ、やるせなくなるばかりです。

 道路も熊野古道も着々と復旧整備されており、深遠な熊野の里も往古の姿をきっと現しますので、ぜひ連れもって熊野の里に心を誘ってもらえればうれしい限りです。

   
(横長の写真は2枚を合成しています)

【2012.3.5 和歌山県新宮市 新垣特派員】

  「5代目桂文枝師匠揮毫の記念碑の除幕式」

 「へらへら日記」でも紹介していただいてましたが、5代目桂文枝師匠揮毫の記念碑(樹齢250年の杉)を復興のシンボルにしようということで、再建の除幕式が3月16日に行われました。記念碑は熊野川町の「道の駅」にあります。道の駅は台風12号で土台を残して流されたままですが、記念碑は文字が流されましたが杉は傾いたまま残っていました。除幕式には君枝夫人、吉野吉本興業会長、桂三枝、しん枝、文福、坊枝など一門が揃い、その夜は木戸銭千円の復興寄席が開かれ千人超満員でした。NHKなどマスコミでけっこう報道されていましたので、少しレアな写真を送らせてもらいます。


式典を仕切る二人(文福&坊枝)


けっこう仕切っている坊枝さん


いらんことばかり言って怒られている文福さん


【2012.3.18 和歌山県新宮市 新垣特派員】


  根っこから倒れた桜に満開の花

 桜前線が北上し、熊野川町でも桜が満開です。熊野川沿いで根こそぎ倒れた桜の木々にも満開の花が誇らしげです。命あるものの逞しさに感動を覚えます。

 私は地域の指導員として、昨年7月に開設された子どもクラブに関わっていました。9月の台風12号で施設が水没し、閉鎖状態でした。ようやく施設の再開工事が決まり、春休みに再開へ向けたイベントの第2弾として、地域をめぐるフィールドワークを取り組みました。
 台風12号よりも水位が高かったという、明治22年8月20日の洪水の碑。十津川では壊滅的な被害があり、村ごと北海道に移住し、辛苦の末に新十津川村を開きました。
 泥が堆積し今年は米作りができない状態の、「平野」という一面の田んぼ地帯。例年なら苗作りや耕しで忙しい時期ですが人影はありません。
 約50年地域の雇用を担ってきたけれど、台風の影響でこの6月に閉鎖をされる紀州造林パレット工場。

 家屋が取り壊されて更地がふえた里の状態。
 これらを、20名の子どもたちと巡りました。ちなみに、熊野川町は小学校が1校で、全校生徒数70名ほどです。子どもたちは身近に体験しているだけに真剣なまなざしで話を聞いていたのには感心し、感動しました。


しっかり話を聞いてくれた子どもたち

 ところで、3月30日の繁盛亭へは、5人で連れもっていきましたが、新冶師匠の「中村仲蔵」の素晴らしさに敬服しました。落語の公演は初めてという2人は、「こんな聞かせる落語もあるんや」と感心しきりでした。

【2012.4.9 和歌山県新宮市 新垣特派員】

 熊野大社の遷坐式と例大祭

 春は全国の神社などでは田植えを前にして五穀豊穣を祈る祭りが開かれますが、那智・本宮・速玉の熊野三山でも開かれています。本宮大社は明治22年の大洪水で社殿が流され、大斎原(おおゆのはら)という熊野川の中洲の場所から現在地に12社の内残った4社殿だけが移されましたが、その遷坐式と例大祭が行われ、4月16日には桂文福、桂坊枝、露の都、桂まめだの四師匠の落語会が開かれ、盛り上がりました。新冶師匠が言うようにまめだ師匠のキャラは抜群でした。客席から「かんばれ!」の温かい声援がしきりでした。
 新冶師匠の復興支援落語会以来、周辺で落語会の開催が目につくように増えており、熊野川町にも5月12日に桂枝曾丸師匠が来る予定です。また落語がこんなに人々に元気を促すパワーとなることを改めて認識しました。都師匠に復興支援落語会の話をしたら新治さんとなら誘ってくれたら何処でも行くと言っていましたけれど…。その都師匠ですが祝詞をあげるときに着替えが間に合わずアッパッパのまま榊を奉納していて大笑いでした。アッパッパは楽屋で着替える時に便利なので愛用しているそうです。今は繁盛亭などでは着替えるために衝立を用意してくれるようになり女性落語家への配慮も進んでいるようです。
 熊野は、昔の高野山や今の吉野大峰山の女人禁制と違って、古来より老若男女貴賤を問わずといわれ全ての人々の再生、甦りの地として祈られました。熊野には女性の修験者もかなりおり熊野三山を巡る人々の先達もしています。説法節の小栗判官物語にあるように、地獄から餓鬼の姿でこの世に戻された小栗判官が相模の国から土車に乗せられ、胸にかけた「一引きひけば千僧供養、二引きひけば万僧供養」の札を見た人々が一引き二引きして444日で熊野・湯の峯温泉に着き、湯につかって49日目に人間の姿に戻ったという話は、熊野の地を甦りの地とする人々の祈りを象徴しています。
 信仰、伝説に彩られる熊野ですが、何にもまして奥深い自然の豊かさが魅力の地です。機会がありましたら是非熊野への訪れをお待ちします。

【2012.4.19 和歌山県新宮市 新垣特派員】


 熊野から沖縄へ

 今日5月15日は、沖縄が米軍政下から1972年に日本へ復帰して40年になります。新宮の速玉大社では13日に世界平和への祈り「梛」特別大祭が行われ、琉球舞踊の奉納式がありました。私の両親が沖縄の出なので、熊野で沖縄芸能を味わえるのを楽しみにしていました。しかも偶然にも、私が持っている三線教本の著者が歌三線で出演していて驚きました。
 速玉大社の神木は梛(なぎ)ですが、1973年に香川県の植木職人から梛の苗500本が沖縄の高校へ送られ植樹され、現在7〜8メートルの成木になっている話を聞いた大社の宮司が、この式典を計画したということです。梛は「凪」として海路の平安の祈りに通じていたので、海賊だった熊野水軍は熊野三山の神に奉仕するとともに、白川法皇から熊野三山の支配者である別当に任命され、立川談志も得意ネタだった落語や講談のネタ本である「源平盛衰記」では、その別当・教真が一万騎の大軍を従えて京都に攻めのぼっています。この教真の別名は湛快といい、田辺の湛増の父であり、湛増の子が弁慶ということです。そんな縁故で熊野水軍は源氏に味方し、屋島、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼす原動力になった〜ということで地元では話は延々と続きます。
 6月23日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結した「慰霊の日」として沖縄では休日になり、糸満市摩文仁の平和記念公園で沖縄全戦没者慰霊祭が開かれます。この日の前後に速玉大社の式典へのお礼として、梛の植樹祭が糸満市の沖縄菩提樹苑で行われるそうです。菩提樹苑には、ブッダが悟りを開いたとされる「聖なる菩提樹」の分け木が、2004年にインドから慰霊を弔うために送られ植樹されていますが、インド国外に持ち出されたのは紀元前に一度あっただけと言われる貴重な菩提樹です。この菩提樹苑には、釈迦の生誕にちなむ無憂樹、涅槃にまつわる沙羅双樹もあり、仏教三大聖樹がそろっているという話を聞きます。ところで沖縄はもともと仏教社会ではなく、ノロやユタ社会でした。いまでもユタが多く、私の親戚縁者にもユタがおり、ユタでなくても私の叔父叔母さん連中は、20〜30年前に亡くなった私の母や父が昨夜枕元に現れたといった類の話を日常的にします〜この類の話も延々と続きますので打ち止めします。
 私の両親の出身地は本島東海岸の西原町で、昔はサトウキビ畑ばかりの村でしたが、今は首里城内にあった琉球大学が移転してきたり大型スーパーができたり、リゾートビーチまでできて、5年前に30年ぶりに訪れて、その様変わりに浦島太郎のようでした。西原は沖縄戦では、南部の日本兵が移動してきて住民を村内の壕(ガマ)から追い出したので、住民の半数が亡くなっています。壕から追い出されスパイ呼ばわりされたり、刀で切り殺された者もいた経験をしているので、日本軍への恨みは今も強いようです。
 一昨年、辺野古を訪ねた後に読谷村へ向いました。沖縄には日本の米軍基地の75%があり、基地は沖縄本島の25%を占めているといわれますが、読谷の米軍基地のほとんどが返還され読谷村庁舎も建てられています。しかし、まだまだ広大な空地があるように、現在、基地は20%程度になっています。それでも米軍基地が20%もの面積を占めている実感はどうでしょうか?沖縄を車で走ったことがある人なら、延々と続く金網の向こうの敷地に驚愕された経験があると思います。読谷では、金城実さんの彫像である残波岬の大獅子像やチビチリガマ平和像、そして象のオリ跡など基地跡地を車で巡っていると、ふと大阪で何度も見たことのある彫刻が野外に雑然と多数所狭しに置いてある敷地があり、車を止めて覗いてみると、全て金城実さんの彫刻なのにびっくりしました。すると横にある家が本人の家で、泡盛を抱えた金城さんと話こむことになり、お前は屋良朝光を知っているかと聞かれ、これには仰天するほどの驚きでした。朝光おじさんは大阪市此花区に住んでいたときの隣人でした。金城さんの話では、この家とこの広い敷地は朝光さんから安く譲ってもらった、彼は恩人だということで、正真正銘の奇遇な話でした。もうひとつ、彫刻は何体も同じものを作っているのでそこにもあったのですが、大作100メートルのレリーフ「戦争と人間」を目にすることができたのは感激でした。彫刻の中に1910(明治43)年の大逆事件で亡くなった新宮の僧侶・高木顕明を顕彰する木彫があったのには、再度の奇遇でした。高木顕明は、門徒戸数の3分の2が被差別部落門徒であった新宮市の浄泉寺の住職でした。ところで不思議なことに浄泉寺は、新宮藩主の水野家の菩提寺同等の待遇を受けた寺という歴史を持ちます。金城さんはこの高木顕明に感銘し、ここで親鸞会という勉強会を続けているということでした。ほんとうに出会いとは摩訶不思議です。
 ところで12日は和歌山テレビで有名人の、文枝一門の桂枝曾丸さんの落語会が熊野川町内でありました。枝曾丸師匠の和歌山弁落語も紀南の方言とはかなり違いますが、土地柄にあって面白かったです。文枝師匠と縁を繋いでくれた新宮市役所の観光振興部の部長でもある落語家・熊野(ゆや)亭雲助さんも、「青菜」を達者に披露してくれました。ここ熊野もそうですが、沖縄でも東北でも、方言満載のご当地を大切にする番組が一等一番の活気を与えてくれる元気の素だと思います。

【2012.5.15 和歌山県新宮市 新垣特派員】


 復興へ一歩一歩の活気

 梅雨に入ると何となくトラウマのようなものが疼き、両の手を合わせて祈っています。新宮市街は晴れや小雨でも熊野川町は大雨ということがよくあり、168号は熊野川沿いに景色のよい山間を走り、最後300メートルほどの越路トンネルを抜けたとたん市街地になりまりが、今まで雨が降っていたのにこのトンネルを抜けると道路が濡れていないといったことがよくあります。
 世界遺産・熊野古道のうち唯一川の古道である熊野川舟下りが再開し6月末まで半額なので乗船してきました。川沿いには多数のがけ崩れの傷跡があり検証するつもりでしたがそれを忘れてしまうほど、自然が織りなす景観はすべてを包み込むようにあまりにも心地よいものでした。人間の営みが泣きたくなるほどに自然の営みの壮大さを感じてしまいました。被災地東北の惨状がつづいている現状を知らされるにつけ人間と自然の営みの折り合いの付け方が大きく課題として膨らみますが、正直途方に暮れてしまいます。
 先月下旬、太平洋に沿う新宮の王子が浜では、海岸の流木だまりを乗り越えてアカウミガメが129個の卵を産んでいると話題になっています。アカウミガメは毎年産卵しますが、今年は砂も減っていたので砂の場所を探して苦労して産卵してくれたようです。少し前にも上陸した痕跡がありましたが砂利層だったので産めなくて海へ帰って行ったということです。子ガメたちは7月下旬には海へ旅立ち帰っていきます。
 毎年5月に行われる熊野川町のカヌー大会は中止になり全国のファンを残念がらせたようですが、世界的に有名なツール・ド・フランスにちなんで紀南各地を駆け抜ける自転車レースのツール・ド・熊野は例年通り4日間にわたり実施され、台風12号で氾濫した私の里を流れる赤木川では6月1日に「赤木川清流コース」としてマレーシア、オーストリア、ウクライナ、香港、台湾などの外国勢選手も含め100人を超える多数が疾走し災害復興をアピールしてくれました。ツール・ド・熊野は今年で13回目になります。
 三重県内にある和歌山県の飛び地・北山村の観光筏下りも5月19日に再開しました。台風で12乗りあった筏のうち8乗りが流出し川床の整備も大変だったらしいですが、水しぶきを浴びて渓谷美を楽しめる復興資源がやっと甦ったようです。
 熊野川町の三重県への飛び地・島津地域は8世帯14人の地域で愛犬が会長、事務局長は区長という日本で一番小さな観光協会があり人気になり、美しい景観を取り戻そうと6月2日には清掃ボランティア約50人が来てくれたそうで、いろんな人に支えられて復興へ一歩一歩の歩みが活気づいています。
 南紀熊野の各地で、自然に脅かされながらも自然とともに生き心を育み豊かに暮らしを営んでいこうとしています。

【2012.6.9 和歌山県新宮市 新垣特派員】


 大逆事件の碑

 台風4号が紀南へ上陸しましたが、台風や前線の影響により全国各地で被害をもたらしています。佐賀県にいるとう新冶師匠から、多忙な中で電話があり心配してくれました。心を寄せていただきほんとうに有難い思いでした。樹木が倒壊し国道が通行止めになったりしましたが一時のことでした。その後も断続的に雨が降っており、今日(6/30)も一日雨が降っています。6月に台風が上陸するのは2004年以来8年振りだそうですが、もう記録的といった被害の再来は止めてほしいと願うばかりです。
 熊野川上流には11ものダムがありますが、治水ダムではなく全て電源開発の利水ダムです。昨年12号台風の時には、これらのダムの一斉放流により熊野川の増水が倍増したという人災の側面が多くあります。つまり台風や大雨が予測される時点で前もって放流をしておけば台風時に放流量が少なくて済むという素人でも判断できる道理ですが、電源会社の言い分は、「治水ダムではなくてあくまでも利水ダムであるので、電源を確保できる水量は絶えず満たしておくことは、法的に何らの瑕疵はない」と主張しています。人命よりも利益優先の考えは、福島原発事故の責任不明、電気料金値上げとつづく東京電力の根底と全く同じです。
 新宮駅近くに1910年に起こった大逆事件の碑があります。新宮に来た新冶師匠がぜひ行きたいと碑の前で手を合わせていました。6月24日に新宮の浄泉寺で高木顕明を思う集い・法要がありましたが、6月16日は大阪の難波別院で大々的に行われ650人の参加があったようです。来年は京都本山で行われるということです。
 大逆事件では幸徳秋水ら24名が1911年1月18日に死刑判決を受け、24日から25日に12名が死刑を執行、残りの12名は無期懲役に減刑。24名のうち6名が熊野出身で新宮の大石誠之助、高木顕明、峯尾節堂、本宮の成石勘三郎・平四郎兄弟そして御浜の崎久保誓一です。大石誠之助は医者で、芥川作家・中上健次の小説にも語られるように貧しい人たちには治療費はある時払いだったので、中上健次が路地と表現した被差別部落の人たちに慕われた人物でした。
 高木顕明(1864〜1914)は35歳の時に新宮・浄泉寺の住職となり大石誠之助らと交流を深める中で、仏教会の日露戦争戦勝祈祷への参加を拒否し、戦勝記念碑や忠魂碑の建立に反対し非戦を貫きました。浄泉寺は門徒の三分の二が被差別部落の人たちでした。高木顕明は厳しい差別状況の中で「虚心会」を結成し差別問題に取り組みました。「虚心会」は大石誠之助らクリスチャン、牧師、革新的な僧侶が主メンバーでした。
 大逆事件では三人の僧侶がいました。曹洞宗の内山愚童、臨済宗妙心寺派の峯尾節堂、真宗大谷派の高木顕明ですが僧籍剥奪で宗門を追われました。大逆事件が稀にみる冤罪事件であることは新宮出身の佐藤春夫をはじめ、石川啄木、与謝野鉄幹・明子、永井荷風、徳富蘆花などの文学者たちが早くから指摘しています。三人の僧侶が名誉回復されたのは、内山愚童が1993年、高木顕明・峯尾節堂が1996年でした。
 高木顕明の顕彰碑は新宮市南谷墓地にあります。高木顕明には幼女がおりましたが、世間の風の厳しさに耐えられず新宮を追われました。顕彰碑の横にある高木家の墓石は浜松市の墓苑から移転されたものです。

【2012.6.30 和歌山県新宮市 新垣特派員】