露の五郎兵衛師匠を悼む

露ちゃんのへらへら日記より


(2009.3.31) 「五郎兵衛師匠のこと」

 すでに報じられており、ご存知の方もおありだと思いますが、私の師匠、二代目・露の五郎兵衛が3月30日午前11:37、逝去いたしました。満77歳、喜寿でございました。今年の桜は見ずじまいでした。
 55歳で脳塞栓で倒れて以来22年間。数々
の病気を克服し、上方落語協会会長も勤め、弟子から見ても、立派な功績をあげてきました。腎臓、肝臓、肺、心臓、すい臓を病み、週に三日の透析。外出許可をとっての、病院からの高座。本当に、気力の固まりでした。先月、階段から転落し、十数針を縫う大怪我も乗り越え、今回も復活してくれると信じていましたが、一昨日から容態が急変し、あの我慢強い師匠が痛みを訴えました。そして昨日、最後は穏やかに息を引きとりました。
 事始めやお正月でも全員揃わない一門が、昨日に限って全員そろいお見送りができたのは、せめてもの喜びでした。永い闘病生活で、何度か「危ない時」があり、ある程度覚悟はできていたつもりでしたが、その瞬間には涙があふれました。繁昌亭出演のため、直前に病院を出た団六さんに、報告の電話を入れたときは、自分でも情けないくらい声が出ず、泣いてしまいました。
 最後の高座は、あみだ
池寄席の「紀州」でした。これも幸い、接することができました。いろんな思い出がわいてきて、とても今おつたえできません。とりあえず、ご報告させて戴きます。
 師匠はキリスト教徒で、お葬式は内輪で密葬をし、4月14日の
夜、お別れ会「召天記念の会」をします。私にまで、お悔やみのメールやお電話をたくさん戴き、本当にありがとうございました。


   川柳」

 師匠は川柳作家としても優れていました。句集も出しています。

 「かにかくに 祇園は恋し 金は無し」 吉井勇の歌を借りた、岸本水府絶賛の名句です。

 「盛り塩が ひざをくずして 夜が更ける」 昔のお塩は、ニガリが入っていたので、湿気を吸うと溶けてきます。色街の店の表の盛り塩が、夜更けになると、溶けてくずれてきます。それを、「ひざをくずして」と詠み、色街のつやっぽさ、夜の情緒を伝えています。
 
師匠はこれを「大丸屋(伊勢音頭恋の寝刃のパロディ)」に入れるために作りました。見事だと思います。あまり見事なので、誰もそれが師匠の創作と思わず、古典ネタと思い、そのままやっています。プロが間違うほど、その場面にふさわしいのです。弟子として誇りに思います。しかも、大丸屋ではこの一句がきっかけになり、はめものが入ります。遊びが芸のこやしになるというのは、こういうことかと思います。

五郎兵衛師匠の文机
書斎の書棚

 五郎兵衛師匠の文机。ここから、何冊もの著書が生まれました。書斎にはきちんと整理された本が。これは、ほんの一部です。一階には、図書室のような書庫があり、この何十倍の蔵書があります。私はそのうち、結局一冊も読んでいません。縁無き衆生です。


(2009.4.1) 「五郎兵衛師匠の召天記念式のご案内」

 師匠、五郎兵衛が亡くなり丸二日経ちました。もう何日も経ったような気がします。
 
以後の仔細が決まりました。師匠は、キリスト教徒で、葬儀は密葬で、お別れ会として「召天記念式」をします。キリスト教では、死は天に召されたということで、もちろん穢れ意識はありません。実は師匠の娘婿さんが、牧師さんで、明言されました。ですから、息を引きとった直後、師匠を囲んで写真を撮りました。私の中にある穢れ意識が「遺体と写真を撮ること」に一瞬抵抗しましたが、すぐに納得して写真に収まりました。別れは悲しいことですが、笑顔で送ろうと「笑顔で」ポーズをとりました。
 「
召天記念式」は、4月14日(火)19:00〜、大阪市阿倍野の「やすらぎ天空館」で。お香典の類は辞退させていただき、祭壇をお花でうめる「供花料」を、お志で戴きます(会費ではありませんので、自由です)。戴いた方のお名前は、会場に張り出して謝意を表します。お申し込みは、上方落語協会、もしくは私のほうにお願いいたします。締め切りは4月8日(水)です。


   「最後の会話」

 3月16日、島根県浜田市のべっぴん寄席からの帰り、広島で「焼きたて熱々のもみじ饅頭」を買い、新幹線に乗りました。師匠は甘党で、特に「あずき関係」には目がありません。喜んでもらえると思い、いそいそと病院の前まできて、ふと思いました。師匠は、糖尿病もあり、インシュリンを打つ毎日。「箱ぐち渡したら、いっぺんに食べ過ぎて、体を壊したらあかん」と気づきました。
 その場で奥さんに電話しました。
「小分けにして、1〜2個渡しましょうか」「そんな心配いらんよ。だいじょうぶ、師匠はそんなに食べはらへんから」「?」
 そんなはずはありません。食事制限してい
た時、「御座候」を持って行ったら「至福のひと時や」ゆうてペロッとたいらげ、まだのど飴をなめた師匠です。半信半疑で持っていくと、師匠はほんまに、半分も食べずに残しました。「あれだけ甘いもんが好きな師匠が、もみじ饅頭一つを残しはった!?」ドキッとしました。
 その時、師匠とネタの話になりました。1月12日に奈良の音声館の寄席に出て戴き、十八番の「浮世床」でお客様を爆笑させた後、私の「鹿政談」をわざわざ、楽屋から舞台袖に出てきて聞いて戴きました。めったにそんなことは無いので驚きました。其の事を思い出し「あの時の鹿政談で、何かご注意をいただけますか?」と聞きました。
 すると師匠は即座に「奉行がおさまり過ぎ」と
一言。「松野河内守は、若手や。言わば新人のエリート官僚や。一方、鹿奉行、塚原出雲は地元のベテラン官僚や。親代々のな。若造ごときに、何がわかんねんと、なめてるわけや。そやのに、奉行があんな訳しり顔でおさまってたらあかん」と。図星ですから、何も言えません。ちょっと落ち込んで黙ってました。
 すると、間をおいて師匠が
一言「ワシも、初演の時にそう言われた。これからや。」「ハイ、ありがとうございます」次伺った時はもうそんな話ができる状態ではありませんでした。私にとってほんまに、ありがたい最後の会話でした。願生って、鹿政談を、私の十八番と言われるようにします。それが恩返しやと思います。


(2009.4.2) 「密葬、終わりました。」

 本日、師匠、五郎兵衛の密葬、とどこおりなく終わり、師匠は「お骨」になりました。30日に亡くなったので、昨日密葬の段取りでしたが、「友引という迷信」のため火葬場がお休みで、今日になりました。こんなところに、六曜が生きています。
 
葬式は予定の立たないものです。だから、火葬場も休めません。と、そこに「友引」がある。これは好都合とこの日を休みにします。すると、六曜を迷信だと思っている人たちも、結果的に、六曜に支配されます。仏式では、人が亡くなると、まず枕経をあげます。お坊様はどこにいてても、帰らなければなりません。ところが、友引の日だけは、呼び返されずにすみます。これは便利ということで、お坊様の泊りがけ研修会などは、まず友引に設定されます。そこへお話に行く私も、結局六曜に動かされます。不合理だと思っていても、それが「便利」だからです。要は、ご都合主義で、六曜が便利使いされているだけです。
 
今回は、師匠がクリスチャンなので、六曜どころか、穢れ感覚もゼロです。今日も最後のお別れに、各自、師匠とツーショットの写真を撮りました。亡くなって四日目ともなると、死を受け入れる心も整い、明るい雰囲気でした。しかし、納棺式になるとさすがに、悲しみがよみがえってきました。師匠は、黒紋付、羽織、仙台平の袴と正装です。右手に扇子、左手に手ぬぐい、必ず高座に持って出た、根付の付いた懐中時計もいれました。甘いものも、もう血糖値を気にせず食べて戴けるのでどっさり入れました。師匠が団姫(まるこ・団四郎門下の孫弟子ですが、最後の内弟子修行を大師匠、五郎兵衛のところでしました)に買ってきてくれと頼んだ「黄金糖」。これは、団姫が入れました。隣家の古い付き合いの前田さんは、「これを」と、大好物のコーヒーを。お花もいっぱい入れました。
 賛美歌を歌い、牧師様が祈りをささげ、最
後出棺の時に、出囃子「勧進帳」が流れた時には、何べんも、何べんも「ごくろうさまです」と送りだしたことが浮かんできて、涙が出てしまいました。
 
2時間後、師匠は、あっさり白い骨になっていました。これが死ぬということなんやと、改めてはっきり見せて戴きました。悲しく、寂しい、辛いことですが、私は、この四日間、人が死ぬということを、具体的にはっきり、しっかり見せて戴きました。そしてそれまでは生きているということも。最後の最後に大事なことを、身をもって教えて戴きました。師匠、本当に、本当にありがとうございました。


(2009.4.3) 「幻の高座になりました。」

 繁昌亭夜席、毎月25日の天神寄席。今回は、「露の五郎兵衛の七段目」と銘打った、久しぶりの一門会の予定でした。今となっては、これが追悼公演のような形になってしまいました。入院中だったので、仕事も減らしていましたが、5日の高槻市のジョイント寄席(席亭、主催者が師匠とは深い付き合いの方)と、25日の繁昌亭だけは入れてました。なんとか出たいと、28日には歩行訓練のリハビリまでしていたのですが、29日朝、急変しました。最後まで高座への意欲を失わなかったのは、本当にすごいと思います。

 「露の五郎兵衛の七段目」は、特に中入り後は忠臣蔵特集で、「四段目、蔵丁稚」・新治、「五段目、軽口にわか、山崎街道」・千橘、団四郎、そして「七段目」・五郎兵衛とつなぐ予定でした。師匠が亡くなったので、急遽、筆頭弟子の千橘師匠が七段目を代演し、最後に、一門が揃ってご挨拶をすることになりました。いわば、事実上の追悼公演です。どうぞよろしくお願いいたします。


(2009.4.14) 「召天記念式、終わりました。」

 すごい人でした。葬儀委員長、桂三枝上方落語協会会長。春団治師匠、仁鶴師匠はじめ咄家もたくさん。東京からも、さん喬師匠(嬉しい驚きでした)はじめ、咄家や寄席関係者が何人も来られました。他にも懐かしい顔々!キリスト教の告別式は、賛美歌や祈りで、充実感いっぱいでした。感動しました。無事にすんでとにかくホッとしました。明日からは、残務整理です。師匠五郎兵衛の大きさが改めてわかりました。
 
祭壇は、ものすごく豪華な花いっぱい。真ん中は十字架です。全て生花で、式の後、花束にして、お持ち帰り戴きました。


(2009.4.25) 「今日も雨です。」

 岡晴男の曲に「今日も雨だよ」というのがあります。ファンの間では、「今日雨」と言っていますが、先日の「召天記念式」に続いて雨です。たまたまのことですが。
 今
日は、兵庫県丹波市(柏原)で、解放同盟の大会で、お笑い人権高座を一席、そのあと、繁昌亭に向かいます。池田の春団治祭りは、欠席させていただきました。
 今日は、繁昌亭
主催の天神寄席ですが、事実上の追悼公演になりました。思えば「露の五郎兵衛の七段目」と銘打ったチラシも我々一門にとっては、貴重なものになりました。私は、熱い稽古をしていただいた「蔵丁稚・四段目」です。この稽古の模様は、またお伝えします。今思うと、つくづく、芸が好き、芝居が好きな師匠であったと、思います。願生ります!


   「尼崎JR脱線事故の日。」

 丹波、柏原(かいばら)への途中。今、尼崎駅を通過中に車内アナウンスがあり、今日があの、「尼崎JR脱線事故の日」と報されました。現場通過中には雨中、たくさんの方が集まっているのが見えました。しかし乗客は、顔もあげない人がほとんどです。ほんまに、情報洪水におぼれきっています。それだけ安心して乗っているわけですが、こんな安心しきって乗っているJRで死ぬとは、誰も考えていなかったでしょう。死ぬための準備も何もできず、一瞬にして、人生を終えねばならない悔しさ。実感できません。ほんまに、人生は生きてる間だけのもんです。ありがたく、存分に生きなければと思います。
 今日は、去年の1月25日に亡くなった、熊本の池田進先生の月命日でもあります。
合掌


   「繁昌亭に、五郎兵衛の看板が!」

 繁昌亭夜席、「露の五郎兵衛の七段目」は大入り満員、成功しました。私の高座で、サゲ前に下座が鳴りだすというハプニングがありましたが、それもご愛嬌とお客さまは鷹揚のお聞き取り。師匠を追悼するやさしい気持ちに終始満ちあふれた、あたたかい寄席となりました。


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